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シニアボランティア活動報告
芹沢浩氏(元都立学校教員)のヨルダン報告
2002年4月から2年間

ヨルダン報告1 2002年4月

 4月1日の夜,アンマンに到着しました.その後アムラホテルに投宿し,やっとインターネットに接続したところです.
 実はテレビをつけると1チャンネルは日本語のNHK放送,東京と全く同じです.したがって,日本の情報はよく入ります.東京は連日,20度を越す猛暑の ようですが,逆にヨルダンは寒い寒い.今日の朝などは何と嵐でした.まだ中東特有(私が勝手に想像しているだけかもしれませんが)の澄み切った一面の青空 を見ていません.
 多分,みなさんが気になるのは政治情勢のこと.JICAの人たちもかなり気にしているようです.昨日は首都のアンマンでも,パレスチナ人による8万人規模(さっき会った大使館の参事官がそう言っていました)のデモがあったようです.
 実はヨルダンに来る前,パリのシャルル・ド・ゴール空港では,偶然,爆発事件(?)に居合わせてしまいました.突然,銃を持った軍と警察が来たと思う と,皆を立ち退かせました.その後しばらくして,鋭いホイッスルと爆発音が2回.音だけだったので爆弾が爆発したわけではないと思いますが,緊張する一瞬 でした.放送がフランス語だったのでよく分かりませんでしたが(英語放送でも同じだったと思います),手荷物がどうかしたとのことでした.
 いずれにしても,私に政治をどうこうすることはできませんので,スケジュールにしたがって,生活するだけです.本日からアラビア語の研修が始まりました.早く,こちらでの生活に慣れたいと思います.

4/3夕方,雨が上がって,少しずつ青空が見え始めたアンマンにて 芹沢浩

ヨルダン報告2 2002年5月

戦乱と隣り合わせの平和な国

 大田ろう学校のみなさん,いかがお過ごしですか.私は4月1日より,国際協力事業団(JICA)のシニアボランティアとして,中東のヨルダンという国に 来ています.「ヨルダン」という国名を知らなくても,「ヨルダン川西岸地区」という地名は聞いたことがあるかもしれません.今,テレビや新聞で盛んに報道 されている世界で最も危険な場所の一つ,通称「ウエストバンク」と呼ばれる地域です.バンクは銀行ではなく,土手または川岸という意味です.
 ウエストバンクはヨルダン川をはさんでヨルダンの対岸に位置し,パレスチナ人が多く住んでいます.以前はヨルダン領でしたが,戦争でイスラエルに占領さ れてしまいました.現在ではここをヨルダン領だと見なしている人は,この国の指導者も含めて,世界中にほとんどいません.したがって,問題はどう独立する かで,それをめぐって,あのような状況になっているわけです.
 私が働いているのはヨルダンの首都アンマンにあるヨルダン・ニューズ・エイジェンシー(JNA)という新聞社のようなところです.ところで,激戦が伝え られるウエストバンクの諸都市まで直線距離にして100kmほど,車で2時間足らずの距離,しかも新聞社といったら,みなさんはどんな職場だと思います か.ひっきりなしに電話が鳴り,徹夜で記者が走り回っている,そんなアル・ジャジーラ(アフガン戦争時に勇名をはせた中東のテレビ局)のような職場を想像 するかもしれません.しかし,現実は正反対で,ここでの生活はいたってのんびりしています.勤務時間は8時半くらいから昼食抜きで2時ごろまで,その後は 自由です.しかも,勤務時間のかなりの部分はコーヒーとおしゃべりに費やされます.「こんな悠長でいいのだろうか」という疑問もわいてきますが,客人に過 ぎない私にできるのは,このゆったりとした時の流れに乗ることだけです.一人であくせくしたり,批判めいたことを言ったりするのは禁物です.
 具体的に私に求められている仕事は,C++,Javaによるプログラミングという最も基礎的なIT技術を教えることです.この牧歌的な職場の人が,はた してコンピュータの中でも一番面倒なこの分野に興味を持つかどうか,大いに疑問ですが,とりあえず,以前に日本語で書いておいたテキストを英語に翻訳する ことから始めました.英語のテキストでも残しておけば,多少はこの国のためになるかもしれません.ただ,それだけでは飽きてくるので,ときどき隣の部屋に いる受付の人にアラビア語を習ったりしています.向こうも人なつっこいので,いろいろと教えてくれます.
 こちらへ来てから約1ヶ月,異なる文化の体験はそれだけでスリルがあり,興味がつきないものです.さらにいろいろな体験をしたいと思っています.あまり コンピュータにこだわるつもりはありません.できれば音楽などの文化活動,サッカーを通じたボランティア活動などにも首を突っ込みたいと思っています.
 最後に写真の説明をしておきます.最初の写真に私と写っているのはサレム・ダブーキーさんで,私と職場のパイプ役になってくれる人,1年ほど前に2ヶ月 ほど,日本に研修に来たことがあるそうです.私の希望などをていねいに上司に伝えてくれて,たいへんお世話になっています.もう1枚はアンマン市内の風 景,この国にはローマ時代の遺跡がごろごろしています.



サレムと                    ヘラクレス神殿跡

ヨルダン報告3 2002年8月

 4月以来,途絶えていた近況報告をさせてもらいます.結論から言いますと,ようやく軌道に乗ってきたというか,見通しを持てるようになったというところ です.しかし,ここまで来るのには,それなりの苦労がありました.もとより,生活面での苦労はほとんどありませんでした.隣接地域があのような状況である にもかかわらず,ヨルダンは非常に安全な国ですし,職場でもどこでも,この国の人はたいへん親切です.
 しかし,仕事面では決して順調ではありませんでした.と言っても,仕事自体で苦労したわけではなく,逆に仕事がなくて,あまりにも暇だったのです.要するに苦労することすらできなかったのです.近況報告をしようにも,報告する内容がほとんどなかったのです.
 私の場合,事前の要請案件との間に「ミスマッチ」と言えるようなものがありました.配属先は一応「ジョルダン・ニューズ・エイジェンシー(JNA)」と いう報道機関ですが,実際はJNAと関係が深い(正確に言うと「深かった」)ユネスコで,「Java」というプログラミング言語を教えるはずだったので す.私もそのことを期待してヨルダンに来ました.ところが,こちらに来てみると,すでにJNAとユネスコの関係は疎遠になっており,両者の仲介をしていた ユネスコの職員も,微妙な立場に置かれているようでした.
 そんなわけで,私は4月11日に職場に配属になりましたが,最初の1ヶ月間は全く仕事がありませんでした.JNAからあてがわれた自分の部屋でパソコン に向かい,いつ使うかも分からないテキストの準備をしたり,新聞を読んだり,受付にいるお茶くみの人にアラビア語を習ったりして,時間をつぶす日々が続き ました.1ヶ月くらいして,私もさすがに気が滅入ってきました.現状や自分の希望を話すと,JNAもやっと腰を上げ,それではここでテクニカル部門の職員 に朝8時半から1〜2時間,「Java」を教えてもらおう,ということになりました.5月中旬のことです.なお,念のために言っておけば,このことについ て,JNAにはいかなる悪意もなかったと思います.
 しかし,部屋の片すみで古くなったパソコンを使っての講習は,あまりいい環境で行われているとは言えず,彼らも仕事の合間に講習を受けるという感じで, 急な仕事で中止になったり,電話で中断されたりすることもしばしばでした.職場での仕事に「Java」が必要不可欠というわけでもないので,「義理で参加 した」という感じの人もおり,当初5人だった生徒も3人に減ってしまいました.講習時間もせいぜい1時間半,そのあと特に用事はないので,朝8時にアパー トを出て,その気になれば11時には戻ることができます.要するに午前だけの時間講師のような生活で,午後は全くフリーなのです.
 これでは「わざわざヨルダンまで何をしに来たのか分からない」と思い,知り合いのシニアボランティアなどに頼んで,仕事探しを始めました.状況が好転し たのは今月に入ってからです.同期のシニアボランティアの紹介で,「アラブ・アカデミー」という大学で,週2日,3時間ずつ,「Java」の講義ができる ようになりました.
 この大学は日本で言う「大学院大学」のようなもので,すでに大学を卒業して働いている社会人がアラブ各国から集まっています.EUの援助もあり,設備も 整っています.この国でも「Java」は盛んですが,データベース関係での使用が多く,私のようにグラフィックスを専門とする人はほとんどいません.はじ めて「アラブ・アカデミー」に行ったとき,私の本の口絵写真を見たスーダン人の学部長(?)は「こういうものははじめて目にする」という感じで,直ちに来 週から講義ということに決まりました.そして,10分後にはもう私の名前と講座名入りで,聴講生募集の掲示が貼られていました.私はこの国に来て,ここま で手際よく仕事をする人に会ったことがありません.
 とりあえずは夏学期4週間の短期集中講義で,すでに半分の4回の講義を終えました.私の講義は英語ですが,同僚のイエメン人がアラビア語でサポートして くれます.私としては,きちんとした形で「Java」を教えたいと思っていたので,はじめて満足のいく仕事にありつけたというところです.学生は熱心で, 授業中の質問も多く,その場で答えられなかった質問には、次回までにある程度,納得してもらえる答えを用意する必要があります.定員の関係で今回受講でき なかった希望者もいるそうで,これからも講義を続けられそうです.
 ヨルダンに来てもうすぐ5ヶ月,私の場合は,うまくいっているほうだと思います.というのは,身の回りにいるシニアボランティアの半数以上(6〜7割) が多かれ少なかれ,私と似たような状況を経験しているからです.「こんなに暇でいいのだろうか」と思ってしまいます.私よりもっとひどい「ミスマッチ」の 話も聞きます.
 つい数日前ですが,JNAから新たな仕事を仰せつかりました.古くなったホームページを自前で作り直したいので,いろいろとアドバイスをしてほしいとい うのです.幸いなことに,これまで私が「Java」を教えてきた若い職員の一人が,すでにいろいろと考えていて,ほとんど試作品も完成しているようでし た.この仕事についてはその若い職員を立てて,私としてはアドバイザーまたは音頭取りに徹するつもりです.
 みなさんの中には海外でのJICAの活動に参加したいと思っている方も数多くいると思います.毎年2回出される募集要項を見た人もいると思います.た だ,私の短い経験から言えば,要綱の案件通りに仕事場や仕事内容が保障されているケースはほとんどないと考えたほうがよさそうです.こちらに来たら,自分 で仕事を開拓するような「Vitality」が必要です.そのためにも,できるだけ若い時期に参加することをお薦めします.特に東京都の場合,「現職参 加」という道があるのですから.
 以上,これまでの状況を簡単に報告しましたが,正直なところ,まだ「暇」です.できればもう1ヶ所くらい,何か仕事ができるところを探したいと思ってい ます.来年の3月ごろ一時帰国する予定なので,多分,3月の国際研の研修会には出られると思います.みなさん,それまでお元気でお過ごしください.また, 何か変化があったら報告します.

死海



ジェラシュ                        ペトラ

ヨルダン報告4 2002年10月

 みなさん,お元気ですか.こちらはもう4ヶ月以上も降水量0,真昼はまだ30度近い気温の日が続いています.前回の報告から,まだ1ヶ月と少ししか経っていませんが,いろいろと状況の変化があったので報告します.
 まず,アラブ・アカデミーでの夏学期の講義は無事に終了しました.その中で,こちらの人についての理解が少し深まりました.まず学生の実力は,思ったほ どではありません.自分に教えられることが十分にありそうなので,安心しました.講義を始めたころ,質問の意味が分からなくて困ったのですが,その原因は どうも相手にもあるようです.もちろん,私の英語はお粗末なもんです.しかし,相手もかなり怪しげな英語を話してきます.
 次に男の中に見栄を張る人間が多いということが分かりました.私も最初は自信がなかったので,「講義は分かるか」と丁重に聞いたりしました.すると平気 で「自分には易しすぎる」とか言います.自分は「どこどこ大学のコンピュータ・サイエンス科を出た」とか,「会社でe-learningのシステムを作っ ている」とか自慢げに話したりします.ところが,いざ課題を出してみると,初歩的なところでつまずいたり,「今は忙しいから」といって逃げ出したりしま す.
 最後に2回に分けて試験を行ったのですが,結果は惨憺たるものでした.全20人中,受験したのが11人.基本的な問題にもかかわらず,独力で完全に解い たのはたった2人,あと4人は正解に近かったので,ヒントを与えて解いてもらい,結局,6人を合格にしました.どうもこちらの男には,「相手の前で弱みを 見せてはいけない」という観念があるようです.
 日本と違って,こちらでの単位認定はかなり厳しいようです.聴講生の中に2人の女性がいて,2人は試験も含めてすべて出席でした.試験は全くできなかっ たので,私は課題を与えて合格にしようとしました.そうしたら,同僚のイエメン人に「とんでもない」という顔をされ,仕方がなく不合格にしました.そうい えば,ときどき新聞に,「どこどこ大学で成績不良のため何百人の学生を放校」というような記事が載っています.ヨルダンでは,一般に教員の権威はかなり強 く,中学校や高校でも秩序はしっかりと保たれているようです.どこかの国のように授業が成り立たないというようなことはないようです.
 もう一つ,自分の懐に入るかどうかは別にして,お金はきちんと徴収すべきだと思いました.はじめ,私はボランティアできているので「無料でいい」と言い ましたが,結局,各人から全部含めて1000円くらいの聴講料を取ったようです.しかし,この程度の額だと平気で休んでしまいます.それでも今回の講義で は何人かのまじめな学生に出会えて,収穫だったと思います.
 アラブ・アカデミーは自分にとって十分に満足できる仕事場だと思いました.そこで,私はそれまでの仕事場,ジョルダン・ニューズ・エイジェンシー (JNA)からアラブ・アカデミーに籍を移そうと考えました.JICAとも相談して,結局,週に1回は今まで通りJNAに顔を出すということで話がまとま りました.JNAのDirectorGeneralは実直な方で,この国の情報省の副大臣も兼任しています.忙しい中,ときどき会うと,「何か困っていな いか」といろいろ気を使ってもらいました.私としては彼の面子をつぶさないでよかったと思います.
 アラブ・アカデミーでの次の講義は新学期の10月からです.前回は合計24時間でしたが,今度は学期を通して40時間になる予定です.
 その間を利用して9/13から1週間,ふらっとシリアを回ってきたのですが,帰ってくると,新しい仕事が舞い込んでいました.これも同僚のシニアボラン ティアがアレンジしてくれたものです.今度は国立ジョルダン大学,この国最大の総合大学で,アンマン市内の広大な敷地には大学病院,総合競技場,農場,モ スクまであり,蒸気機関車も展示してあります.こちらは工学部の電気工学科,コンピュータ工学科の学生が対象,うれしいことに受講生の大半が女性です.さ すがに,みなさんよくおできになり,授業態度もクワイエス(アラビア語でGoodの意味).文系のアラブ・アカデミーでは数式アレルギーの人も多かったの ですが,こちらは理系なので数学もOK.とりあえずは学期の合間を利用しての集中講義ですが,教えがいがありそうなので,是非とも続けたい仕事です.
 2つの大学のほかに,ユネスコでも簡単なコンピュータ講習を行っています.暇をもてあましていたつい2ヶ月前がウソのよう.「この国を中東におけるIT の中心地に」という国王の声かけがあり,至るところでコンピュータ熱がヒートアップ.そのため私の専門であるJavaに対する需要も急増,講師料がただの 私はけっこう重宝されています.
 ところで,先ほどは男性に対して多少厳しく言ったので,今度は女性に対して一言.こちらのムスリムの女性の中には,若いにもかかわらず,驚くほど化粧の 濃い人がいます.誰とは言いませんが,ジョルダン大学の中にもいます.ほとんど顔の原型をとどめないほどです.歌舞伎役者のように目尻を黒く塗って,実際 より倍くらいの大きさに見せようとしています.一時,日本で流行った「ガングロ」のほうが,まだ愛嬌があるという感じです.今回の報告はこれくらいで終わ りにします.

芹沢浩(アンマンにて)



パルミラ・ベル神殿                        アサド湖から見たユーフラテス川



ハマの水車



国立ジョルダン大学工学部の正面玄関                        授業風景



聴講生

ヨルダン報告5 2002年12月

 みなさん,お元気ですか.砂漠の町アンマンにも冬の訪れ.このところ雨の日が多く,夏の乾いた暑さがうそのように冷え冷えとしています.
 11月の中旬から1ヶ月ほど,週の前半,土〜火くらいを地方都市で過ごしました.ご承知のように,イスラムの世界では金曜日が我々の日曜日に相当しま す.そうなった理由は11月6日から始まったラマダン(断食月).私の主な職場,アラブ・アカデミーは社会人対象の大学なので,通常,ほとんどの授業が4 時以降にあります.ラマダンになると会社が早く終わるため,それらの授業が2時間ほど繰り上がってきました.その結果,普段は1時半からの私の授業がはじ き出されてしまったのです.そんなわけで,ラマダンの期間中,あやうく失職となるところでした.ちなみに,アラブらしいと言えばそれまでですが,このこと はラマダンに入る直前,2〜3日前に告げられました.
 仕方がないので,どこか外国旅行にでも行こうかと考えていたおり,アンマンの南100kmほどにあるカラクという町の同僚からお誘いがありました.彼は そこのムタ大学に勤めていて,講義をしに来ないかというのです.一人で寂しく旅行するよりは,若い学生を相手に講義していたほうが面白いと思い,私はこの 話に乗ることにしました.カラクには十字軍によって築かれた中世の城跡があり,以前に2回ほど訪ねたことがあります.
 正確に言うと,この大学はカラクの南に隣接するムタという町にあります.小さな田舎町に似合わぬ立派な大学,学生数1万7千といいますから,この町の住 民より多いかも.現在,ムタ大学は国立の総合大学ですが,もともとは軍の大学だったようです.今でも構内はミリタリーウィングとシビルウィングに分かれ, ミリタリーウィングの入り口には銃を持った兵士が警備していて,一般の人は立ち入りできないようになっています.
 アンマンからバスで1時間半の距離ですが,それでも地方大学,ジョルダン大学の学生に比べると,どことなく素朴です.ジョルダン大学では構内を歩いてい ても何ていうことはありませんが,ムタ大学では「視線」を感じます.ときどき「ヤバーニ(日本人)」とささやいている声も聞こえます.授業は毎週,日, 月,火の3日間,4週間にわたって合計10日,同じ内容の講義を午前,午後2時間ずつ行いました.最後の週はラマダン明け休暇と重なって火曜日しか講義が できませんでした.対象は工学部コンピュータ工学科の学生,みなさんJavaははじめてですが,とても熱心.ジョルダン大学のときはこちらで勝手に講義し たという感じでしたが,今度は向こうの教職員も積極的に協力してくれました.意外なことに日本で研修や留学の経験がある教授や職員が2,3人いて,その人 たちとは日本語で少し話ができました.
 一方で物騒な事件もありました.10月末にアンマンで米外交官殺害事件があったのですが,その犯人探しの過程で,特殊警察とマアンという町の住民との間 で銃撃戦が発生しました.11月10日のことで,双方に合わせて数名の死者が出たようです.さらに11月24日にも2回目の銃撃戦があり,やはり死者が出 たようです.特殊警察が首謀者とにらんでいる人物はまだ捕まっていません.
 マアンという町の歴史は古く,そこには国王の家系,ハシュマイト家がヨルダンに来る前からこの地を治めていたという氏族の末裔も住んでいます.その意味 で反中央の意識が強く,以前からたびたび中央とトラブルを起こしていました.イスラム原理主義の影響も強いらしく,今回の事件には外国の勢力も絡んでいる とのこと.腹にダイナマイトを巻きつけて脅しながら,医者に治療を強要するというようなモスクワ事件を思わせるシーンもあったといううわさが流れていま す.このマアンという町,カラクからさらに100km以上南に下りたところにあります.11月10日,11日と準備に行ったときには,行きも帰りも厳重な 検問に会いました.
 講義の合間をぬって,カラク在住の青年協力隊員と一緒に近郊の障害者施設も訪ねてみました.そこには12〜40才の知的障害者が男女合わせて100人く らい入所していました.我々が行っても,わざと知らないふりをするひょうきんなダウンの子など,世界中どこでも同じだな思いました.私が青鳥養護学校にい たころよくやったぞうきんマットの木枠などもあり,たいへん懐かしく思いました.その障害者施設にはアメリカのピースコー(多分,日本の青年協力隊のよう なもの)も来ていたのですが,情勢の悪化に伴って,我々が訪ねたつい数日前に本国に引き上げていったとのことです.所長さんと案内してくれた人はともに日 本での研修経験者,それぞれ横浜と大阪に10ヶ月近くいたそうで,日本語もなかなかお上手.ムタ大学といい,この施設といい,ヨルダンの田舎町で,これだ け多く日本語の話せる現地人に会うとは思いませんでした.
 ヨルダンという国もいくら平和とはいえ,やはり周囲の影響から免れるわけにはいきません.引き続くパレスチナでの抗争,イラクを巡る情勢,それに今回の マアン事件といい,最近,どことなくピリピリした雰囲気を感じます.JICAも国外退避シナリオを作ったりしています.私としてはせっかく仕事が軌道に 乗ってきたところなので,できるだけヨルダンにいたいのですが...これのみは「インシャーラ(神のみぞ知る)」の世界です.
 そういえば,先日,ムタ大学から帰ろうとしていると,大勢の学生が集まって,誰かに向かって投石していました.ついつい野次馬根性で見に行ってしまいま したが,相手のグループが他の学生セクトなのか,それとも地元住民なのかは全く分かりません.そのうちパトカーが来て割って入り,どうにか収まったようで す.30年ほど前,日本の大学でもよくこんな光景があったなと,懐かしく思い出してしまいました.
 こちらでの私の情報源はBBCと英字紙のJordanTimes,それらは,連日,世界中のテロや紛争を報道しています.ときどき,ふとチャンネルを NHK(NHKの衛星放送も入ります)に変えると,のどかな田園風景や趣味の番組が流れていたりして.あまりの落差に,一人でいても,思わず失笑してしま います.
 報道によれば,日本政府は起こり得るアメリカのイラク攻撃にいち早く支持を表明したようです.私はこのような主体性のない姿勢に疑問を持たざるを得ませ ん.こちらで実際に生活してみて感じることは,アラブ諸国の人々は日本に対して過大とも思えるほどの期待,尊敬の念を抱いているということです.このこと は,主体的に行動すれば,日本には中東の緊張緩和に大きく貢献できる下地があるということを意味します.日本政府の姿勢はこのような可能性を放棄するだけ でなく,アラブの期待を裏切るものでもあります.私としては戦争そのものの危険よりも,期待を裏切られたときに起こるかもしれない反動のほうがより怖い気 がします.
 話は変わりますが,先日,かなり年配のある人から貴重な話を聞くことができました.その人の出身地はテルアビブ近郊,後日,日本の連合赤軍が銃の乱射事 件を起こしたロッド空港のすぐ近くだそうです.空港の名前はもう変わっていると言っていました.小さいころ柵をくぐってよく中で遊んだそうです.イスラエ ル建国後の1948年,その人が12歳のとき,イスラエル軍が来て,住民を追い出しにかかりました.その人は山間部を歩いてシリアに逃れたそうです.イス ラエル軍は住民をモスクに集め,そのあとモスクに火をつけて焼殺したそうです.そのときの軍の指揮官がラビン,後に中東和平に貢献したということで,アラ ファトとともにノーベル平和賞を受賞した人物です.その後,ラビンが自国の右翼青年に暗殺されたことはご存知の通りです.
 また,その人は1967年の第3次中東戦争のとき,軍医として,当時ヨルダン領だったウエストバンクで従軍していました.そのときヨルダン軍は,ほとん ど戦火を交えることなく,イスラエルにウエストバンクを明け渡したそうです.その後,ヨルダンはウエストバンクの領有権を放棄したままイスラエルと平和条 約を結びました.その人はイスラエルばかりでなく,ヨルダンも含めたこの地域のアラブ人にも絶望していました.自分の子供には他の国籍を取ることを勧めて いるようです.この地域の政治状況は想像を絶するほど錯綜しており,人々の心の中はもつれています.
 12月11日から通常のアラブ・アカデミーでの授業に戻りました.少し早いですが,みなさん,よいお年を.こちらでの年末年始はクリスマスと元日だけが休みと聞いています.添付写真はムタ大学の正門と最もにぎやかな中央広場,それに障害者施設です.



国立ムタ大学の正門                        中央広場



カラク近郊の障害者施設

ヨルダン報告6 2003年2月

 みなさん,お元気ですか.昨年の冬は30cmの積雪があったというので期待していたのですが,今年の寒さはそれほどでもなく,生暖かい穏やかな日が続いています.
 私の職場,アラブ・アカデミーでは1月下旬から試験が始まり,その後,校舎の移転があったりして,講義のほうはしばらくお休み.今は旅行のチャンスで す.1月下旬のトルコ,ギリシアに続き,2月はじめには再びペトラを訪ねました.昨夏の旅行でヨルダンを代表するこの世界遺産を一通り見てあるので,今回 は周辺部の山などを重点的に踏破してきました.有名なエル・ハズネ以外にも,エド・ディルなど,周囲の山にはたくさんに遺跡が残っており,今さらながらペ トラの広大さに驚嘆しました(添付写真).
 予定では,2/23(日)から3/23(日)まで日本に帰国します.3/17の研修会にも出席するつもりです.講師としてと言いたいところですが,もう 1年近く中東にいるというのにアラビア語はてんでダメです.ろくにあいさつもできません.これを機会に少し勉強したいと思います.
 ただ,隣国イラクでの戦争が差し迫っているようなので,予定の変更があるかもしれません.こちらでは攻撃開始が今月中旬か下旬というのが大方の観測で す.日本からも報道関係者がアンマンに集結しており,彼らはX-Dayにあわせてイラクに入国しようと,機会をうかがっているようです.なかなか勇敢な人 種だと感心しました.もしイラク攻撃が始まれば,その機に乗じてイスラエルはパレスチナへの攻勢を強めるでしょう.トルコ,ギリシアを旅行したとき,旅先 でいろいろな国の人に会いましたが,ほとんどの人がアメリカとイスラエルを非難していました.「これだけ世界中が反対しているのに何故?」という感じで す.
 最近の世界情勢を見ていると,「平和」とか「平等」といった言葉に限りなく懐疑的になってきます.知らず知らずのうちに「性悪論者」になっています.世 界に充満している戦争や不平等は人類が存続するかぎりなくならないと思われます.昔,ある人が「歴史上の愚行は二度繰り返す.一度目は悲劇として,二度目 は喜劇として」と言いました.しかし,たったの二度ではなく,人類の愚行は永遠に,しかも,つねに悲劇として繰り返されるようです.
 国と国との関係でいえば,特権的な国とそうでない国とがあります.単純に考えても,大量破壊兵器を持つ国が,他国がそれを持つことを禁止するのは不平等 です.少なくとも持っている国はそれを放棄しようとする姿勢が必要でしょう.しかし,そうする気配は全くありません.国連の安保理でも,それが話題になる ことはないようです.すべての国が不平等を当然だと認めているようです.
 人と人との間にも差別は存在します.外見が大きく異なるにもかかわらず,我々日本人がこの地域で差別されることはありません.逆に日本人は尊敬の対象です.しかし,そのことはアラブ社会が差別と無縁であるということを意味しません.
 まず同じ人種内でいえば,女性が差別されています.昨年末,こちらの英字紙「Jordan Times」に「家庭の名誉のための犯罪により国内で今年22人目の犠牲者が出た」という記事が載っていました.この種の犯罪の被害者はつねに女性で,加 害者は男性です.要するに,これは家庭にとって不名誉になるようなことをした(と判断される)女性に対する家庭内での処分です.つまり,被害者は妻や娘, 加害者は父親や男の兄弟です.一般にアラブ社会では,この種の殺人は暗黙のうちに認められており,加害者が罪を問われることはありません.つい先日も,同 紙に「弟が姉を殺害」という記事が載っていました.これが今年になって最初のケースかどうかは分かりませんが,加害者は「家庭の名誉のための犯罪」を主張 しているようです.
 この地域には他国人に対する差別も存在します.ヨルダンの小ぎれいなアパートにはたいてい「Watchman」と呼ばれる人物が雇われています.ほとん どの場合,「Watchman」すなわち見張り番はエジプト人で,私のアパートにもいます.ある時,用事があって彼が住んでいる地下室を訪ねたのですが, あまりの劣悪な環境に呆然としてしまいました.6畳くらいの部屋にベッドと兼用のソファが1つ.一日中,陽があたることのない部屋に置かれた暖房器具は壊 れかけた電気ストーブだけ.自分の部屋とのあまりの格差に罪悪感さえ感じてしまいます.彼らの身分は封建時代の農奴のようなもので,アパートに縛りつけら れており,土方などをしてアルバイトをする権利も認められていません.どんなに暇でも,一日中,「見張り」をしていなければなりません.もっとも,契約を 解消する権利は認められているとは思いますが.
 また,ヨルダンの裕福な家庭はメイドを雇っており,そのほとんどはスリランカから来ています.私のアパートにはいませんが,隣近所のアパートには多くの メイドが住んでいます.彼女たちは何年(多分2年くらい)かの契約できており,その間はひたすら雇われた家庭に奉仕することが義務付けられます.中には夜 になると逃げ出さないように外から部屋に鍵をかけてしまう家主もいると聞きました.ときどき,屋上で遠くを見つめている彼女たちの姿を目にします.故郷の ことでも考えているのでしょうか.
 この地域における公衆マナーの悪さにもびっくりします.アラブの国ではおよそ人が集まりそうなところにはゴミが散乱しています.以前,私はシリアの地方 都市で,バスターミナル横の半地下の区画が巨大なゴミ捨て場と化しているのを見ました.幅20m,長さ500mくらいのゴミ箱は悪臭を放っていました.多 分,以前は商店街か何かだったのでしょう.ヨルダンでも状況は似たり寄ったりです.そうなる理由は単純で,タバコを吸ったら吸殻をポイ,ジュースを飲んだ ら空き缶をポイ,何か食べたらビニール袋をポイ,万事この調子だからです.車やバスの窓からも平気で捨てるので,道を歩くのにも注意が必要です.もちろ ん,彼らはゴミ捨てを正当化する理由も用意しています.「ゴミを捨てないと,それを集めている人の仕事がなくなる」です.まるで,できるだけゴミを散らか すことが人助けであるかのようです.そうすることによって,つかの間の優越感に浸っているようです.こんな国に援助に来ているのかと思うと情けなくなって しまうことがあります.
 こうして見ると,日本人の意外な美徳に気が付きます.他国人に比べれば,日本人は他人を差別しないほうです.他国に比べれば,日本の社会は平等なほうです.公衆マナーはそれほどいいとは言えないかもしれませんが,少なくともポイ捨てが当然という風潮はありません.
 こちらの人から「ヨルダンをどう思うか?中東をどう思うか?」と聞かれることがよくあります.たいていは外交辞令と思ってほめておきますが,必ずしもそ う思っているわけではありません.私のこの地域に対する気持ちは,心理学用語で言う「ambivalent」な状態です.確かに西隣のガザやウエストバン クの惨状を聞くと,何とかしたいという同情の念に駆られます.イラクで戦争が始まれば,東隣でも同様な惨状が生まれるでしょう.その意味でこの地域には抑 圧された悲惨な状況があります.アラブ・アカデミーではパレスチナやイラクの学生を教える機会も多いので,ことさらその気持ちを強くします.
 しかし,一方でこの国の裕福な人たち,すでにある程度の地位を築いてしまった人たちはかなり堕落しているように思えます.国内に充満する差別,貧富の差 を見ると,はたしてこの国に援助する必要があるのかと疑問に思うことがあります.自分が差別されなくても,他人が差別されているのを見るのは,決して愉快 なことではありません.JICAなどの国際機関による援助は,この国の自助努力を阻害し,逆に精神を堕落させているようにも思えます.そして,極めて残念 なことですが,援助資金のかなりの部分がそのような人たちの懐に入っていくというのが実情のようです.
 疑問は尽きないとしても,ただ一つだけ言えるのは,この地の若い学生に教えるのは充実した仕事だということです.この満足感は決して日本では味わうこと ができません.宮沢賢治の詩にもあったように,今年もどこかで自分を必要としているところがあれば,可能なかぎり出かけていくつもりです.
 3/17にみなさんに会うのを楽しみにしています.

芹沢

※ 日本帰国後,アンマンから80cmの積雪があったという連絡を受けました.



エド・ディル(ペトラ)

ヨルダン報告7 2003年6月

 国際研のみなさん,お元気ですか.久しぶりのヨルダン報告をお送りします.
 5/11(日)にヨルダンに戻りました.みなさんと研修会で会ったのは3月でしたから,あれから2ヶ月近くも日本にいたことになります.2月末の健康管 理帰国からそれに続くイラク戦争退避の間,なるべく日本的なものに触れようと努めました.今日の政治,経済,社会状況において,日本を賞賛する材料はほと んど見当たりません.しかし,伝統的な文化や風土という面では話は別です.決して捨てたもんではありません.それどころか,世界でもまれに見るユニークで 貴重な文化に出会うことができます.特に長期の異国生活から戻ってみると,改めて日本文化の独自性を認識します.那智の滝,奈良興福寺の仏像,羽黒山の五 重塔,水郷佐原の古い街並み,横山大観の日本画,北斎や広重の浮世絵など,日本滞在中に見たものはどれも地球上の他の地域には決してない繊細な表情を備え ていました.ちょうど桜から新緑に移る季節.山里を走るローカル線の車窓から見る風景,木々の葉の微妙に異なる色彩.特に山桜が混じるときに生まれる絶妙 な色の混合.日本文化の繊細さはこのような自然の多様性が育んだのでしょう.
 ところ変わってドバイからアンマンへ向かう飛行機.空港に近づくにつれて見下ろす赤茶けた大地.どこまでも続く単調,日本で見た風景とのあまりの違い.「ああ,また砂漠に戻ってきたんだ」というのが,ため息とも感慨ともつかない最初の実感でした.
 戦争後のアンマンは意外なほど平静でした.戦争前と変わらない生活が続いているようでした.職場のアラブアカデミーに行ってもみなさん歓迎してくれて, 戦争のことはほとんど話題になりません.対日感情が悪化しているという印象は全く受けません.戦争中,日本が米英を支持したので,少しは批判も覚悟してい たのですが,拍子抜けといった感じでした.
 ヨルダンは平穏でも,周辺の国々は違います.日本ではもう忘れかけているかもしれませんが,こちらの新聞では戦後のイラクについて,かなり詳しく報道さ れています.確かにフセインがいなくなって喜んでいるイラク人もかなりいるようです.しかし,戦後のアメリカやイギリスによる復興は思うように進んでいな いらしく,治安もかなり悪化しているようです.当初はフセイン体制の終焉を喜んでいた人たちの間にも反米感情が高まり,最近では駐留米英軍に毎日のように 人的被害が出ています.終結宣言以前における戦争そのものによる被害に匹敵しそうな勢いです.
 このところヨルダン国内で2つの重要な会議が相次いで開催されました.アカバでの中東サミットと死海リゾートでの世界経済フォーラムです.もともとヨル ダンにはパレスチナ問題に深く関わらなければならない道義的な理由があると思います.1967年の第3次中東戦争後,ヨルダンは当時自国領だったウエスト バンクの領有権をほとんど停戦交渉も行わずに放棄してしまいました.このことがこの地域を悲惨な状態に陥れた原因の一つになっているからです.中東サミッ ト以後,一時的に以前にも増して,テロが頻繁に発生するようになり,パレスチナ和平は瀕死の状態に陥りました.そもそもブッシュは和平の仲介役に相応しく ないように思えます.アカバサミットのとき,ホテルのプールサイドでシャロンとアバス(パレスチナの新首相)を両脇に長椅子にそっくりかえってくつろぐ ブッシュの姿がBBCに映し出されていました.あの横柄な態度に不快感を感じた人は世界中に限りなくいるでしょう.
 しかし,世界経済フォーラムの後,状況は持ち直しつつあるようです.個人的にも,パレスチナ和平の実現は強く望むところです.今や双方の存在を否定する ことは全く非現実的です.聖なる地におけるパレスチナとイスラエルの共存しか解決策はないはずです.以前にも述べましたが,アラブアカデミーにはパレスチ ナからの留学生が数多く在籍しています.彼らは和平が実現したらと前置きしながら,いつもパレスチナに来るように誘ってくれます.彼らは今でもこの危険地 帯との間を往復しています.ウエストバンクにはイーストバンク(要するに今のヨルダン)よりもずっと多くの文化遺産があるそうです.エルサレム,ベツレヘ ム,ジェリコ,……,キリスト教徒以外をも郷愁に誘わずにはおかない地名が目白押しです.
 仕事のほうは順調です.こちらに戻ってから,2つのまとまった講義をしました.まずアラブアカデミーでの集中講義は5/21(水)から始まり,6 /4(水)に終わりました.学期途中での募集だったせいか,学生はスーダン人が1人だけ.でも,たいへんまじめで優秀でした.この勉強熱心なスーダン人は 1冊だけ持ってきていた私の本を見て,どうしても欲しいと言い出しました.これだけなので少し躊躇しましたが,それほど欲しいのなら,ということで,結 局,サインして彼に渡しました.同じイスラム教徒でも,アフリカ出身の黒人はアラブ人のように見栄を張ったりすることがなく,自分の気持ちをストレートに 表現してきます.
 2月に引越ししたアラブアカデミーは郊外の砂漠の中にあり,タクシー,スクールバスを乗り継いで,片道1時間以上かかります.写真を添付しますが,建物はこれだけで,国立のジョルダン大学やムタ大学に比べると,敷地面積は1/100以下です.周囲は砂漠です.
 一方,5月下旬には昨年末に講義に行ったカラク近郊のムタ大学から新たな要請を受けました.今度の要請内容は初心者を想定した初歩からの講義で,ありが たいことに,学生からそのようなリクエストがあったとのこと.要するに前回の講義は難しくてよく分からなかったので,もう一度,基礎から教え直してほしい ということだったようです.私も昨年の講義では学生たちがあまり理解していないらしく,そのことが気に掛かっていたところ.その意味でもすすんで引き受け ることにしました.ただ,全くの基礎から教えるのは初めての経験だったので,かなり念入りに準備しました.
 ムタ大学への出張講義は,2日の事前準備も含めると6/9(月)に始まり,6/23(月)まで合計10日間に及びました.全体を14のテーマに分け,1 日に2テーマずつ7日で完結し,最後の日は試験としました.準備に行くと前回で顔見知りの女子学生が2人,手伝うというのでわざわざ待っていてくれまし た.2学期と夏学期の間の休み中にもかかわらず,学生たちは非常に熱心.ムタよりさらに南方のベドウィンの村から1日2本しかないバスで通ってくる女子学 生,逆に北方のイルビットからアンマンを経由し,バスを乗り継いで来る男子学生など.こちらもできるだけのことはしようという気になります.
 その甲斐があってか,今回の講義は出席率もよく,最後の試験には20名近い受験者全員が合格.これまでの中で最も満足のいく講義になりました.実はこれ までの講義では中途での脱落者が多く,教え方がよくないのでは,と悩んでいたところでした.教えるときはできるだけ分かりやすくていねいに,これは世界中 どこでも共通のようです.しかし,体のほうは大変でした.大学のほうでゲストハウスを用意してくれたのですが,シャワーは使えないし,台所も汚く,結局一 泊しただけ.ほとんど毎日,片道2時間以上かけてアンマンから通いました.
 以前から不思議に思うことがあります.アラブアカデミーでもムタ大学でもそうですが,この地域の人は学生時代にはあれほど熱心なのに,就職すると急に怠 惰になります.その変わり方が極端です.理由はこの社会をがんじがらめに縛り付けている血縁,地縁の関係にあるように思えます.どんなに優秀でも,コネが ないとまともに就職もできません.そんな中で若い人たちは次第にやる気を失い,日常に埋没していきます.この状況を解体しないと,この国の発展はありえな いのですが,それは至難の業です.その意味で「イスラムは後進的」という批判はある程度は当たっているように思います.
 最近,我々の仕事は日本のプロ野球やJリーグに来る助っ人外人に似ているのではないかと思うようになりました.よく言われることですが,助っ人で成功す る外人はみな余計なプライドを捨て,日本の社会になじもうとした人たちです.逆に自分は大リーグでこんなに活躍したのだから尊敬されて当然,というような 顔をしている選手はことごとく失敗し,日本の習慣に悪態をつきながら故国に戻っていきます.これと同じように,日本でこんな役職についていたのだから,と いうような態度を捨てられない人は,途上国へ来ても,なかなか仕事が軌道に乗りません.
 世の中に本当に尊敬に値するような人間はそう多くはいません.自分は偉いと錯覚している人,もしくはそう思われたいという人はかなりいますが.特に日本 人には多いかも.これまでの報告の中で,私は何回か,この地域には見栄を張る男が多いと書いてきました.しかし,彼らの見栄はほとんど嫌味を感じさせませ ん.淡白でどことなく見え透いています.その理由はこの地域の人々の態度が基本的に諦観,すなわち神という自分以外の絶対的権力への恭順に基づいているか らでしょう.
 7月のはじめには1週間ほどスコットランドで休養する予定です.できれば鉄道で北のほうまで行って,中東の砂漠とは違った荒涼を見てきたいと思っていま す.帰ったら7月中旬からアラブアカデミーで初心者向けと上級者向けのコースを平行して持つつもりです.添付写真は建物がアラブアカデミー,それ以外はム タ大学での授業風景です.

芹沢



アラブアカデミー新校舎





国立ムタ大学での授業風景

ヨルダン報告8 2003年8月

 昔から私は辺境という言葉が好きでした.だからスコットランドは憧れの地でした.7月上旬のスコットランド,よかったですよ.どんよりしたエディンバラ の街,晴れた日のネス湖の真っ青な湖面とアーカート城,反対に雨の日のオー湖と霧にかすんだキルチャーン城,やはりスコットランドには湖と朽ち果てた古城 が似合います.けっこう寒く,コートを着ている人もかなりいました.反対にTシャツの人もいましたが.夜は10時過ぎまで明るく,朝も3時過ぎには明るく なります.ずいぶん北まで来たんだと思いました.ただ,若い女性に肥満が多いのと煙草を吸う人が多いのが意外でした.
 スコットランドから帰ったらすぐ,アラブアカデミーでBasicコースとAdvancedコースの講義を並行して始める予定でした.しかし,なかなか受 講生が集まらず,結局,希望者はBasicコースの1人だけ.予定より2週間以上も遅れ,またも細々とした個人教授になってしまいました.
 以前の報告で授業料をきちんと徴収したほうがよいと書きました.安すぎる授業料だと,学生が真剣にならず,適当にサボってしまうと思ったからです.そこ で授業料を5JDから8倍の40JD(約7000円くらい)に値上げしてみたのですが,この試みは失敗に終わりました.最終的にはこれまでと同じくらいま で下げざるを得ませんでした.日本の感覚でいえば,トータル20〜30時間の講義を7000円という額は決して高いとは思えませんが,こちらの経済的に豊 かでない学生にとってはかなり負担のようです.また学生たちは私の身分がボランティアで,アラブアカデミーから金銭を受け取っていないということを知って おり,高い授業料を払うことに抵抗があるようです.
 次のようなこともありました.これまで私は最終試験にパスした学生に対し,アラブアカデミーの名前で簡単なCertificate(合格証明書)を作 り,再生紙に印刷して渡していました.自分が学生の頃,講義終了ごとに合格者にCertificateを渡すという習慣はなかったので,私は事情がよく分 からず,その程度のもので十分と考えていました.しかし,こちらの学生にとって,Certificateはかなり重要な意味を持つようです.就職のときに 有利になるのでしょう.所属先の大学だけでなく,いろいろな機関からCertificateをもらいたいようです.
 実は前々回の講義で合格した受講生から,「あの薄っぺらなCertificateにはがっかりした.アラブアカデミーのものではなく,もっときちんとし た紙に印刷したJICAのCertificateがほしい」というクレームを受けてしまいました.そこで私はこれまでの合格者全員分のJICAによる Certificateを厚手の紙に印刷して作り直し,本人たちに直接手渡すことにしました.すでにアラブアカデミーを卒業している人もいて,全員に渡す ことはできませんでしたが,新しいJICAのCertificateを受け取った学生は思いのほか喜んでいました.
 昨年の最初の講義では手伝ってくれたイエメン人の手前,単位認定を厳しくしました.しかし,次からは「仏の芹沢」に戻っています.分からない学生にはヒントを与えて解いてもらい,少なくとも試験を受けに来た学生にはCertificateを与えるようにしています.
 ところで,9/1(月)から10/15(水)まで日本に帰国します.5月中旬にこちらに戻ってから,まだ3ヶ月と少ししか経っていませんが,別に何かあったわけではありません.そろそろ来年のことも考えなければならないので,予定通りの帰国です.
 次にヨルダンに戻るのは10月中旬です.私に残された期間はもう半年もありません.アラブアカデミーで受講生が集まりにくいのは単に金銭面の問題だけで はないようです.アラブアカデミーは社会人対象の大学ということからも分かるように実務を学ぶ大学であり,学生はすぐに仕事に役立つ知識を求める傾向にあ ります.ところが,私の講義はどちらかといえば基礎的な内容中心で,実戦的ということをあまり考慮していません.彼らにとってはそれほど魅力的ではないの かもしれません.それにアラブアカデミーで私の講義内容に興味がある学生は,すでにほとんどが聴講してしまったようにも思えます.いずれにしても,今後も 多くの聴講生は期待できそうもありません.
 一方で6月の講義の後も,ムタ大学からはこれからも続けてほしいという要望を受けています.学生も基礎的領域も含めて幅広く知識を吸収しようという意欲 があり,私の講義内容にも興味を持っています.私も限られた期間を有意義に使いたいので,10月以降は活動の中心をムタ大学に移そうと考えています.もち ろん,私の任期はあとわずかなので,再度の配属先変更というようなことまでは考えていません.
 ところで,私が気に入っている1人のアラブアカデミーの学生を紹介したいと思います.名前はSari,日本人の感覚では女性名に聞こえますが,Sari は彼です.私が教えた中で最も優秀な学生の1人です.余談ですが,私は自己紹介のときに「My name is "Hiroshi Serizawa".」ではなく,「My name is "Serizawa Hiroshi".」というようにしています.苗字を先にいうのは日本の習慣であり,そこまで欧米の習慣に合わせる必要はないと思うからです.そして,た いていは「Please call me "Seri".」とも付け加えます.これまで生徒や同僚にそう呼ばれることが多かったので.そんなわけで「お互いに名前がよく似ている」というのが最初の 会話だったことを覚えています.似ているのは名前と苗字の一部ですが.
 Sariはガザの出身,パレスチナ自治政府の奨学金を得てエジプトのカイロ大学に留学した後,アラブアカデミーで勉強を続けています.決してハマスの闘 士にはなれそうもないような温和な彼ですが,故郷を思う気持ちは人一倍強く,いずれガザに戻って国の再建に尽くしたいといっています.
 その彼が7月,何かのコンファレンスで発表する機会を得て,ドイツへ渡りました.はじめての渡欧だったようで,ヨーロッパ文化の洗礼を受けて,えらく感 動して帰ってきました.たとえば街がきれいなこと.人々が強制されるのではなく,自発的にゴミを捨てないようにしていること.自分が今まで見てきたアラブ 世界とのあまりの違い.何しろアラブはタバコの吸殻や空き缶を道路や空き地に捨てることに何の良心の咎も感じない土地柄です.アンマンに戻ったとたん, 「私はDepressed(打ちひしがれた)」と笑いながら話していました.そこで私は「いっそのことヨーロッパに移住したらどうだ」とけしかけてみまし た.そうしたら,即座に「私はガザを見捨てることができない.私はSacrifice(犠牲)になるつもりだ」という断固とした決意が返ってきました.そ の言葉に少しも気張ったところや悲壮感はありません.早く彼が活躍できるようなガザになってほしいと思います.
 ところが,最近,また暗雲が立ち込め始めました.バグダッドではヨルダン大使館に続いて国連本部も爆破されました.反対側のパレスチナでも停戦が破棄さ れ,暴力の応酬が再開されました.今のところアンマン市内は平静ですが,しばらく鳴りを潜めていたパレスチナ,イラク支援の動きも始まったようです.私の 考えでは,たとえ生きていたとしても,イラクでフセインはもう力を失っていると思います.国際的なテロ組織がフセイン体制の生き残りを吸収し,主導権を 握って過激な行動に走っているように思えます.
 1年半こちらにいて,政治的にも文化的にも難しい地域だということがよく分かりました.最近は,とりあえず中東は来年3月まででいいと思うようになってきました.またいつか戻ることがあるかもしれませんが.



エディンバラ旧市街



ネス湖とアーカート城                        オー湖とキルチャーン城

ヨルダン報告9 2003年11月

 今年もラマダンの季節が訪れ,そして過ぎていきました.イスラム教徒ではない我々にまで断食の義務が課せられることはありません.しかし,ラマダン期間 の日中はレストランが閉まるので,昼食には一苦労.家に帰るまで我慢したり,隠し持ってきたパンを人目につかないところでこっそり食べたりしなければなり ません.なぜラマダンという風習があるのでしょうか.あるイスラム教徒の現地人が言っていました.「こうして腹をすかせていると,世界中の飢えている人々 の気持ちが分かる」と.しかし,昼間のぐったりとしながらひたすら日没を待っている姿や日没後の朝まで続く食の饗宴を見ていると,こうしたきれいごとはに わかに信じ難くなります.
 10月16日に一時帰国から戻ると,早速,ムタ大学の知り合いから電話がありました.すぐに打ち合わせに行き,ラマダンが始まるちょうどその日,10月 26日から12月のはじめまでの予定で講義を行っています.ところで,先ほど「ラマダン期間の日中はレストランが閉まる」と言いましたが,例外もあること が分かりました.場所はムタ大学正門前の建物の一角,中が見えないように入り口はカーテンで隠してあります.アングラのような怪しげな部屋に入ると,中は タバコの煙が立ち込め,コーヒーや紅茶をすする「不良」男子学生がたむろしていました.サンドウィッチと紅茶を注文して上の階に上がると,イスラムの服装 をした「不良」女子学生もお茶を飲んでおしゃべりしていました.
 こんなこともありました.日没後にレストランに行き,ウェイターにビールを注文しました.ところが「ビールはダメだが,赤のワインなら出せる」と言いま す.それなら,ということでワインを注文し,しばらく待っていました.するとウェイターがお茶を入れるポットのようなものを持ってきて,冷たそうな中の液 体をカップに注ぎ始めました.間違いかと思って「お茶は注文していない」と言おうとしたとき,ようやく理解できました.ラマダン期間中は夜間でも原則とし てアルコールは禁止です.要するにビールでは泡が出るし,白のワインでは透明なので,カモフラージュできないということのようです.
 ムタ大学での講義についてはこれまでと特に変わりないので省略し,今回は当地の学生について,雑多な印象を記したいと思います.彼らは概してまじめで勉 強熱心,記憶力に優れています.ただし,創造性という面では欠けるように思えます.おそらく,小中高から暗記中心の学習になじんでいるのでしょう.試験前 など,理科系の教科なのに,まるでコーランを暗誦するように声を出してノートを読んでいる姿を見かけます.あまり本を読んでいる形跡はありません.みな ハードカバーの本のようなものを持ち歩いていますが,たいていは厚手のノートです.特に女子学生はそれを日除けや顔隠しに使うのが好きなようです.それが ファッションであるかのようにノートを顔にかざして歩いています.
 そもそも,この国には本を読む習慣がなさそうです.本屋の数は少なく,「Book Shop」という看板が出ていても半分くらいは文房具屋です.人口100万の大都市でありながら,アンマン最大の本屋の蔵書数は新宿紀伊国屋の 1/1000にも満たないでしょう.店内の客は多くて2,3人,たいていは自分ひとりだけです.蔵書の少なさを隠すためか,わざわざスペースをとるよう に,本は背ではなく,表紙が見えるように陳列してあります.
 学問の府であるにもかかわらず,どこの大学の図書館も貧弱です.以前,ジョルダン大学の図書館に行ったとき,茶色くなったぼろぼろの本ばかりあったこと を覚えています.アラブアカデミーの図書館は新しい本もそろえていますが,蔵書の数はそれほど多くありません.ムタ大学の図書館にはまだ行っていません. 人づてに聞くと,新しい本はほとんどないそうです.工学部などもかなりの学生数と敷地面積を保有しているので,独自の図書館があってもいいと思うのです が,ありません.
 授業中,私は学生に「講義だけでは不十分なので,Javaの参考書を最低1冊は買うように」と言ってあります.その見本として,すでに数冊の参考書も渡 してあります.しかし,学生たちはどうも買うのを渋っているようです.単に本を読む習慣がないというだけでなく,別な理由があるのかもしれません.あるム タ大学の先生が言っていましたが,かなりの学生が貧窮にあえいでいるそうです.誇張があるかもしれませんが,換えのズボンもなく,ラマダンでもないのに, 年中,昼飯抜きという学生もいるそうです.学生たちが本を買わないのは経済的な理由からかもしれません.だとしたら,図書館の整備はますます緊急の課題に なってきます.今後,JICAが積極的に取り組むべき課題の1つです.
 大学卒の就職事情もかなりひどいようです.この国には労働力を吸収する産業らしきものがほとんど育っていません.少ない就職口も地縁,血縁によって占め られてしまいます.そんなわけで,卒業後,男子学生の中には国内に留まらず,景気のいい湾岸諸国に職を求める人もいます.しかし,女子学生はそう簡単に国 外へというわけにはいきません.それと関係があるのかどうか分かりませんが,女子学生の多く(3〜4割か)が左手の薬指に指輪をしています.すでに婚約し ているのです.聞くところによると,持参金を学費の足しにしているそうです.
 アラブ社会の慣習に従い,ヨルダンの女性たちは多くの子供を生みます.平均すれば6〜7人になるかもしれません.度重なる出産と子育てのせいか,それと も自己の怠慢による運動不足のせいか,彼女たちは年齢が50くらいになると肥満し,一人で歩くのがやっとというほどに体が弱ってしまいます.きっと,私の 講義を聴きにきている女子学生の多くが,将来,そのような運命をたどるでしょう.アラブの堅苦しい慣習に囲まれた生活が延々と続きます.年に1回アンマン に出かけることさえもなくなるかもしれません.私から習ったJavaプログラミングなど,すぐに忘れてしまうでしょう.
 せっかく習得した彼女たちの知識を無駄にしない方法はないのでしょうか.この問題を解決する1つのかぎは教育にあると思います.多くの途上国の例に漏れ ず,この国の教育行政はかなり遅れています.実は昨年4月にヨルダンに来た当初,私はこの国には学校がないのかと思ってしまいました.日本で学校という と,まず目に付くのはサッカーコートが一面とれるくらいの校庭です.確かにがれきと起伏が多い地形というハンディはありますが,この国,特にアンマンには そのような校庭はありません.しばらくすると,コンクリート敷きのバスケットコートと国王の写真と国旗を飾った門のある建物が目に付くようになりました. 実はそれが学校だったのです.
 聞くところによると,小中高の教育は知育偏重,暗記重視で,音楽,美術,体育の授業はないそうです.そういえば思い当たることがあります.レストランの テレビから流れてくる音楽はいつも詠唱調でワンパターンです.国立美術館には稚拙にデフォルメされた抽象的絵画が堂々と飾られています.全身バネのかたま りのような青年があふれていながら,この国のスポーツは一向に振るいません.どれもなるほどと納得がいきます.
 この国において,一般に小中高の教員は給料も安く,冷や飯を食わされた存在です.これまでアラブアカデミーでは,今は教員だが,別な仕事に就きたいので マスターやドクターを取りに来たという学生を何人か教えました.夕方,拾ったタクシーのドライバーから昼間は教員をしているという話を聞いたことも何度か あります.抜本的な解決策は地方も含めて,全国的に教育制度を充実させることです.そして,十分な教育を受けた女子学生たち(別に男子学生でもかまいませ んが)を教員として登用することです.そうすれば彼女たちの努力が無駄になることはありませんし,地域社会で生きなければならないという境遇とも矛盾しま せん.
 11月の下旬,ラマダン明け休暇を利用して,同期のSVやJICA職員と一緒にシナイ半島の旅に出かけました.車で南部の港町アカバまで行き,船で対岸 のエジプトに渡り,シナイ半島を周遊してから同じ経路で戻ってきました.港や船はメッカから帰るエジプト人巡礼者でごった返し,入国審査で待たされたり, 船が遅れたりと不愉快なこともありました.列を作って並ぶという習慣がないので,人ごみをかきわけて強引に乗船するという多少後ろめたいこともしました. それでも「100年前の船旅はこんなものだったのか」と,古きよき時代の旅情にたっぷりと浸ることができました.
 旅のクライマックスはシナイ山の早朝登山,モーセが神から十戒を授かったところです.朝2時半に起きて,3時に麓の修道院を出発,予約しておいたガイド が来ないので,懐中電灯を頼りにガイドなしで登りはじめました.しかし,登山路は観光客で長蛇の列,迷う心配はありません.2時間半ほどかけて山頂に着く と,頂上は足の踏み場もないほどの大混雑,日の出を見ようと数千人が鈴なりになっていました.30分ほど待つと待望の日の出,幸いなことに私はいいポジ ションを確保できたので,気に入った写真を撮ることができました.



シナイ山の日の出                        シナイ山からの眺望



聖カトリーヌ修道院

ヨルダン報告10 2004年1月

 明けましておめでとうございます.いよいよヨルダンでの最後の年,ここの生活も残すところ3ヶ月を切りました.昨年の12月中旬にはギリシアへ1週間の任国外旅行に行ってきました.1月に続いて,昨年2回目のギリシア行きです.
 今年は確かギリシアでオリンピック.それにしてはアテネでの交通渋滞はひどく,また公園や歩道に凶暴な野犬が放置されていたりして(私は追い回され,噛 みつかれそうになりました),準備は順調に進んでいない様子.地下鉄の車内放送もギリシア語だけだし,旅行者には不親切です.そもそもそれほど経済力があ るとは思えないこの国が,なぜオリンピックを招致しようなどという気になったのか.オリンピック開催時の混乱は必至かもしれません.最近のオリンピックを 見ていると,前の大会より少しでも派手にやることが至上命令という感じで,どう見てもオリンピック本来の精神から逸脱しています.まだ始まってもいないの にこんなことを言って申し訳ありませんが,もしアテネが失敗して,そのような悪しき商業主義に水を指せば,それはオリンピックの歴史において好ましいこと かもしれません.
 ところで,私は学生時代から趣味でフルートを吹いています.大田ろう学校では機会はありませんでしたが,青鳥養護学校にいたころはよく生徒の前で吹いた ものでした.ヨルダンにも楽器を持ってきて,機会があれば吹いてみたいと思っていました.そんな折,北部の中心都市イルビッドの大学に勤めるシニアボラン ティア(SV)から誘いがありました.芸術学部の音楽科にフルートを習っている学生がいるので来てみないかとのことでした.
 私はアマチュアのフルート奏者であり,教えようなんていう気持ちは毛頭ありません.そんな実力があるとは思っていません.折角の機会なので,アラブ音楽 を少し勉強させてもらい,そのお返しに「春の海」や大江光の曲などを紹介できればと思っていたくらいでした.その程度の積もりだったのに大変な目にあいま した.何を勘違いしたのか,フルートの先生は会うなり興奮して,「君は英語を話せるか」,「それは都合よい」とか失礼なことを口走ったあとは,拒絶,拒 絶,拒絶.「私はいかなる助けも必要としていない」の一点張りで,取り付く間も与えません.やっとすきを見つけて私の思っていることを話すと,「ここは西 洋の音楽を教えるところなので,アラブの音楽も日本の音楽も必要ない」と一蹴されました.
 私はこの先生の気持ちが分かったので,そのまま引き下がることにしました.すると,別れ際に呼び止められました.招かざる客の撃退に成功したと確信した のか,表情が少しにこやかになっていました.そして,ヤマハの日本語のカタログを見せて,「生徒の一人がこのフルートを欲しがっているので,値段をドルに 直してほしい」と言います.見ると銀製で76万円と書いてあります.そこで6000〜7000ドルだと言うと,目を丸くしました.「これはたったの200 ドルだったのに」と言って机の引き出しから取り出して見せたのが,初心者が使う最も廉価な洋銀製の楽器.洋銀は合金で,銀を全く含んでいません.材質の違 いは一目で分かります.いくら日本語のカタログとはいえ,写真を見れば2つの楽器の違いくらい分かると思うのですが.
 聞くところによると,この国の音楽の先生方,決して演奏会を開かないそうです.このフルートの先生もきっと長いこと人前で演奏していないのでしょう.あ る人が言っていました.「ヨルダン人の先生にピアノの伴奏を頼んではいけない」と.理由は弾けなくて恥をかかせてしまうから.前回の報告でも述べたよう に,この国では小中高で音楽の授業がありません.その弊害はこんなところにも現れています.一度も楽器に触ったことがない学生が大学の音楽科に入学してき ます.単に大学入学資格試験(Tawjihi)の成績が悪かったという理由で.この国では大学や学部がランク付けされていて,入試の成績によって行先が割 り振られてしまいます.芸術学部のランクはかなり下のようです.
 フルートの話は笑って済ますことができても,次はそうはいきません.ただし,自分の体験談ではなく,人づてに聞いた話です.私は日本で障害児学校の経験 が長いので,この国における障害者の状況を知りたいと思っていました.以前にも報告したように,一昨年の11月末にはカラク郊外の施設を訪ねたりもしまし た.最近,養護施設に派遣されている青年協力隊員から実情を聞く機会がありました.それによると,この国の障害者に対する扱いはかなりひどく,ほとんどケ アを受けずに放っておかれているようです.ただ机に伏せていることを強制されたり,椅子に縛り付けられたり,そして,言うことを聞かないとムチが待ってい るそうです.
 アラブにおいて,一般に人権に対する意識は希薄です.もう2ヶ月くらい前ですが,BBCがスリランカから中東地域に出稼ぎに来ているメイドの実情を報告 していました.彼女たちの中には使用人から棒でたたくなどの暴力や虐待を受けている人もいるようです.約束を反故にして給料を払わないくらいのことは日常 茶飯事だそうです.具体的にはサウジアラビアの名前が上がっていましたが,ヨルダンでも似たような状況があるのではないかと思われます.
 サウジアラビアや湾岸諸国は石油によって巨万の富を蓄えています.それらの富は自分たちの努力によって得たのではなく,たまたま石油が出る地域にいたと いう偶然によってもたらされたものです.確かにヨルダンからは石油は出ません.しかし,石油が豊富なこの地域に安定した足場を確保したい欧米諸国や日本 は,穏健なこの国に競って援助を与えています.そこには自分たちの利益を守ってくれる政権を作ろうという意図があります.この国の指導者たちも援助と引き 換えに,そのような立場を受け入れているようです.その意味で間接的にですが,ヨルダンも石油の恩恵を受けていると言えます.
 パレスチナやイラクを見ていると,アラブ人は虐げられているという印象を受けます.しかし,それら以外の地域ではアラブ人はむしろ虐げる存在のことが多 いようです.石油によって利益を得るのは自分たちが優れているからだと錯覚し,他国の人々を抑圧し,差別しています.ときとしてイスラムがそのような怠惰 や差別を正当化するための言い訳に使われることさえあります.
 ここでの生活もすでに1年と9ヶ月.アラブの嫌な面も次第に目に付くようになりました.努力をしないこと,怠惰,言い訳,派手なジェスチャー,実力を伴 わないプライド,見栄と虚栄,など,など,など.もし石油が枯渇したら,この地域はどうなるでしょうか.もう世界中の誰も見向きもしません.飢えと貧困が この地域を襲うでしょう.そうにでもならないと,分からないのかもしれません.
 フルートの話の続きですが,その後も週に1回,イルビッドに通っています.私にこの話を紹介してくれたSVが日本語と日本の歌を教えるというので,それ を手伝うことにしました.合唱のときはソプラノのパートに重ねて,メロディを一緒に吹いたりしています.合唱のメンバーの中にフルートを専攻している学生 も入っています.先日,その学生たちの前で,有名なフルートのメロディをいくつか吹いてみました.そうしたらバッハの「管弦楽組曲」は知っていましたが, ビゼーの「アルルの女」やモーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」は知りませんでした.フルート専攻の学生が「アルルの女」を知らないのには びっくりしました.世界中で最も有名なフルート曲だと思いますが.フルートを吹いていると,数学やコンピュータとは永遠に手を切ってもいいと思えてきま す.なぜもっと早くこういう活動を始めなかったのかと,つくづく後悔しています.
 最近,ヨルダンにおける対日感情が少しずつ悪化しているという印象を受けています.理由は自衛隊のイラク派遣です.私は読めませんが,当地のアラビア語 の新聞は日本を激しく非難しているようです.現地の人から責めるように見解を求められることもあります.JICA関係者もこのところ連続して盗難や強盗の 被害に合っています.政治的な背景の有無は不明ですが,以前にはなかったことです.昨年のイラク戦争前のときよりも「危険」を感じます.あのころは間違っ てミサイルが飛んでくる危険性はあったとしても,少なくとも周りの人間は味方でした.しかし,状況は変わってきています.実際に派遣となったら,日本人が テロの対象になる可能性も出てきます.
 中東地域も含め,日本は世界の開発途上国の間で概してよい評判を勝ち得てきました.最大の理由は欧米でないにもかかわらず,日本が優れた工業製品を生み 出す国だからです.開発途上国の人々は日本の技術力に限りない尊敬の念を抱いています.日本の評判は日々努力を続けてきた多くの名もない技術者たちのおか げなのです.一方でせっせと日本の評判を落とす人たちがいます.一瞬で情報が世界を巡る時代だというのに,日本の政治家はこの地域の人々の感情について驚 くほど無知です.日本は中東地域で信頼を失いつつあります.



メテオラ



テッサロニキ                                オリンポス山

ヨルダン報告11 2004年2月

 いよいよ帰国が近づいてきました.どこの大学も1月の学期末試験のあと休みに入り,もう仕事はないかと思っていたところ,最後になって,またムタ大学か ら依頼がありました.新学期早々,初心者向けと中級者向けの講義を平行してやってほしいとのこと.今までは工学部だけでしたが,今度は理学部の学生も対象 です.2月23日から5週間,週2回,帰国直前の3月24日まで,通い慣れた南部のいなか町に最後の出張講義に行ってきます.ヨルダンを発つのが3月29 日,日本に着くのが3月30日の予定です.
 先日,何と地震がありました.震度は3くらいで,日本でいえばそれほどの大きさではありませんが,まさかヨルダンで地震にあうとは思いませんでした.突 然,ドカンと来たので,一瞬,爆弾テロかと思ったくらいでした.ヨルダンはもともと地震が少ないところで,職場で聞いてみると,かなりの年なのに地震をは じめて経験したという人もいたくらいです.
 3月15日にフリーのフォトジャーナリストを呼んでイラク・アフガニスタンに関する講演会を開くとのこと,日本にいればぜひ聞きに行くところです.ヨル ダンにいるからといって,隣国イラクについて,より多くの情報が入ってくるわけではありません,日本で得られる以上の情報は手に入りません.しかし,イラ クで起こっていることに対するアラブ人一般の反応については,直に接しているわけですから,日本にいるよりははるかによく知ることができます.
 日本の自衛隊派遣については,こちらのほとんどの人が快く思っていないようです.私への配慮からか,多くの知人はその話題を避けてくれます.しかし,敢 えて話題にして問い詰めてくる血気盛んな若者もいますし,タクシー運転手から非難されることもあります.日本の自衛隊派遣を歓迎する,もしくは期待すると いった意見を一度も聞いたことはありません.
 一般のアラブ人が日本の自衛隊派遣を快く思わない理由は十分に推測できます.まず99%のアラブ人が反イスラエルだという事実があります.そして,ほぼ 同数のアラブ人がアメリカを嫌っています.だとしたら,アメリカの要請によって自衛隊を派遣する日本を快く思うわけがありません.アラブにおいて,アメリ カは嫌われても仕方がない理由があります.アメリカは「ダブルスタンダード」と呼ばれる極端に親イスラエルの政策を採っています.ほぼ公然になっているイ スラエルの大量破壊兵器には目をつぶりながら,イラクに対しては大量破壊兵器を排除するという名目で戦争を仕掛けました.多くのアラブ人にとって,アメリ カの態度はイスラエルに対しては甘く,アラブに対しては厳しい,つまり不公平であると映っています.今や戦争の大義名分すら崩れ始めています.開戦当時, イラクの大量破壊兵器はすでに破棄されていたらしいということを当のアメリカ自体が認め始めています.
 しかし,日本の自衛隊派遣についていうと,他国のアラブ人とイラク人との間には微妙な温度差があるように思えます.というのは,このところ何回かBBC のWebページで「日本の自衛隊がサマワで歓迎されている」という好意的な記事を読んだからです.私のこちらでの主要な情報源はBBCのテレビニュースと Webページですが,私は偏向しないニュースソースとしてのBBCを信頼しています.たとえば,自国のブレア首相がイラクにおける大量破壊兵器の脅威を誇 張することによって開戦を正当化しようとしたという話を暴露したのもBBCです.その結果,秘密漏洩問題でドクター・ケリーの自殺という不幸な事件も招い てしまいましたが.
 BBCだからというわけではありませんが,周辺のアラブ諸国とは異なり,サマワにおいて「日本の自衛隊が歓迎されている」というニュースにはそれなりの 信憑性があると思います.特にサマワが位置するイラク南部はシーア派イスラム教徒が多い地域で,スンニ派のフセイン体制からはたびたび過酷な弾圧を受けて きました.昨年の戦争後,イラクに入ったという何人かの日本の報道関係者から「フセインがいなくなって喜んでいる人がこんなにいるとは思わなかった」とい う話も聞きました.それに,たった今,非常に不自由な生活を強いられているイラク人にしてみれば,どんな援助でもほしいという切実な期待もあると思いま す.
 以上のことは私の推測の域を出ません.私としてはぜひ実際にイラクで活動されている方の意見を聞きたいところです.忘れなかったら,誰かかわりに質問してみてください.
 アラブの民衆の間では,アメリカに敢然と立ち向かったフセインに対する人気は根強いものがあります.先日,乗ったタクシーの運転手は,私が日本人だと分 かると,やにわに自衛隊派遣を非難し始めました.見ると運転席にフセインバッジの付いたイラク国旗が飾ってありました.彼はイラク人でしたが,「アラブの ヒーロー」としてフセインに好意を寄せるパレスチナ人は今でもたくさんいます.
 こちらにいると,政治と無縁でいるわけにはいかないという状況を強く感じます.大学に行けば学生に,タクシーに乗れば運転手に,至るところで政治の話を 持ちかけられます.ヨーロッパを旅しても,ガイドとまたは土産物屋の主人と話し込めば,すぐに政治の話になります.政治の話になって自分の意見を言えない ことは,自分は愚か者であると宣言することと同義です.我々が学生だったころ,あれほど「政治的」だった日本人はどこに行ってしまったのでしょうか.今の 日本では政治について話すのが後ろめたいような雰囲気さえ感じられます.日本は政治と無縁でいることが許されるほど平和で豊かなのでしょうか.
 最近,ビデオでですが,「アラビアのロレンス」と「十戒」を見ました.どちらもヨルダンの砂漠やシナイ山,ネボ山など,身近な場所が舞台なので,とても リアルに感じられました.「十戒」で悪役になるファラオのラムセスも,カイロで実物のミイラを見たばかりでした.実は1月末にカイロに行ってきました.あ まり大きな声ではいえませんが,昨年10月にこちらに戻って以来,3回も外国旅行をしてしまいました.
 こちらで「アラビアのロレンス」が話題になることはほとんどありません.先日,アンマンの殉教者記念館(いわゆる戦争博物館)を訪ねたところ,オスマン トルコに対する「偉大なアラブの反乱」のコーナーはありましたが,特にロレンスに関する記述は見当たりませんでした.誰かアラブ人と一緒に写っている彼の 写真はあったように思います.アラブ人にとってはロレンスも自分たちを欺いた人間の一人のようです.
 「アラビアのロレンス」に出てくる王子,ファイサル一族のその後の運命は国際政治に翻弄されるアラブを象徴しています.その後,英仏の意向によってイラ ク国王になった彼の末裔はフセインによるバース党のクーデターによって殺害されてしまいます.今日のアラブの混乱を招いてしまった究極の原因は英仏の植民 地政策にあったと思います.
 ヨルダンを去る日が間近に迫り,時間があるときはアンマン市内の行き残したところを歩き回っています.殉教者記念館もその一つですが,アンマン市内を走 る鉄道の軌道を歩いたりもしました.オスマントルコが建設し,ロレンスがたびたび爆破した鉄道が今も残っています.ただし,写真は1年前に撮ったもので, アンマン駅構内に停車するダマスカス行きの「国際」列車です.機関車に続く最初の2両が客車で,残りは貨車です.もう一枚の写真はダウンタウンの裏山にあ る白黒模様のモスクです.こちらは最近のものです.
 ちょうど1年前になりますが,写真の列車への試乗も忘れられない思い出です.家畜でももっとましなところにと思えるような客車,車輪の振動が直に伝わっ てくるシート,線路に転がるドラム缶を蹴散らしながら疾走する機関車,おもしろがって列車に石を投げる沿線の子供たち,それに向かって怒鳴り散らす運転 手.ゴミがたまっていると,運転手が機関車から降りて自分で線路を掃除することもありました.北方の町マフラックまで2時間,いかにもいかにもアラブ的な 旅でした.
 次回,最後のまとめの報告をするつもりです.3月15日の盛況を期待しています.



ダマスカス行き「国際」列車                        アブダルウィッシュモスク

ヨルダン報告12 2004年3月

 前回,「次が最後」と言いましたが,つい先日,ユニークな体験をしたので,短い報告を挿入させてください.みなさん,とても多忙なご様子.こんな悠長な報告を読んでもらえるか,心配です.
 3月4日,木曜日のことです.このところアンマンはTシャツでも外を歩けるくらいのポカポカ陽気,今日はムタ大学での講義もないことだし,ということ で,朝からアンマン西方のイラクアルアミールという遺跡を訪ねることにしました.前回の報告でも述べたように,最近,近隣の行き残した旧跡を訪ね歩いてい ます.
 まずはタクシーで地図に地名が書いてあるところまで行き,ウロウロしていましたが,なかなか見つかりそうもありません.仕方がないので,「サラマレイコ ン」とあいさつをして,店の前にたむろしているお兄さんたちに聞くことにしました.ちなみに,最初のあいさつをアラビア語でするかしないかによって,その 後の対応が全く違ってきます.写真を見せながら「ここに行きたい」と言うと,「自分はタクシーの運転手で場所を知っている.ここからさらに11kmある」 と言います.本当かどうか,少し怪しいと思いましたが,とりあえず彼の言うことを信じて,料金の交渉に入りました.結局,ここから往復,5〜600円程度 で折り合いが付きました.
 さあ出発かと思っていると,「その前に家に寄ってお茶を飲んでいけ」と言います.多少の好奇心もあって,私はこの招きを受け入れることにしました.それ ほど裕福そうではありませんでしたが,家の中はこぎれいでした.回りにマットを並べた応接室には家の主,つまり運転手の父親がどっかと腰を下ろしていまし た.
 そこで驚いたのが部屋に飾られている写真です.まずサダムフセインの大きな写真が2枚.びっくりしている私を見て,主人はニコニコしながら「フセイン」 と言ってうなずいています.その様子から,明らかに彼がフセインを崇拝していることがうかがえます.次に目に付いたのは,塀際にうずくまるパレスチナ人父 子がイスラエル兵に射殺されていく場面を映した数コマの連続写真.一昨年だったか,フランスのテレビ局がこのショッキングなシーンの一部始終をカメラに収 め,何度かテレビでも放映されたので,私も知っていました.家の主人は「イズレイリ」と言いながら銃で撃つしぐさをします.我々の常識では人をもてなす場 所にはあまり相応しくないと思われる写真,でも主人はイスラエルに対する憎しみを風化させたくないのでしょう.
 一族の誰かがアラファトと一緒に撮った写真もありました.おじとか言っていましたが,一族の誇りなのでしょうか.それ以外にエルサレムや故郷ヘブロンの 写真(一家はヘブロン近郊の村から逃れてきたそうです),国境のないパレスチナの地図など.ハイファを指して「イズラエル」と言ったら,「ノー,ノー,パ レスタイン」と怒られてしまいました.
 日本人が珍しいのか,好奇心旺盛にみんな集まってきて,順に紹介.兄弟は全部で5〜6人で,アンマンのホテルで働いている弟もいました.ただ,平日の昼 間(午前10時ごろ)なのに家族全員が顔をそろえていることを考えると,パレスチナ人の就業率はあまり高くないと思われます.高校生くらいの女の子もいま したが,学校はどうなっているのかと不思議に思ってしまいました.その後,お茶とコーヒーに朝食.決して豪華ではありませんが,心のこもった手料理でし た.特にエジプトの何とかという野菜を油で揚げたものはたいへん美味でした.
 私は自衛隊のイラク派兵について聞かれるのでは,とびくびくしていました.結局,最後まで話題にならず,彼らが日本人に反感を持っていないということを 知ってホッとしました.たまたま通りすがりに訪ねたパレスチナ人の難民家庭.でも彼らの平均的な生活状況や心情を知るには十分です.そして,この国の人口 の6〜7割が彼らのようなパレスチナ難民によって占められています.
 1時間くらい歓待を受けてから,その家を辞去して,本来の目的であるイラクアルアミールへと向かいました.タクシー運転手の言葉に偽りはなく,すばらし いところでした.アンマン近郊にこんな桃源郷があるとは思いませんでした.今は1年中で最も緑が多い季節,周囲の山々には草や木々が生い茂り,谷間には小 川が流れ,遺跡の周りで子供たちが遊んでいます.このとき私は旧約聖書に記されたカナン,「乳と蜜の流れる」約束の地が決してうそではなかったと確信しま した.遺跡を見学してからアンマンの自宅まで送ってもらい,朝食代とチップも含めて約束の倍くらいのお金を渡しました.



イラクアルアミール

ヨルダン報告13(最終) 2004年3月

 一昨日,ムタ大学での最後の授業が終わりました.Basicコース,中級コースあわせて約50名,理学部からも大勢の学生が受講に来て,これまでにない 盛況でした.はじめに「今回は10回しか講義できないので試験はなし,8回出席すればCertificateを与える」と言ったところ,あまり態度がよく なく,さすがに私も途中で大きな声を出してしまいました.そして,前言を翻して,「最終日は試験」と言うと,急に真面目になりました.24日の試験では前 もって試験問題も教え,ノートも本も持ち込み可だが,「No Cheating」ということだけは厳しく言っておきました.にもかかわらず,すきがあれば友達の答案を見ようとする学生がいます.意外なことにムスリム の服装をしたおとなしそうな女子学生にも.私としてはCertificateではなく,講義の内容自体に興味を持ってほしいのですが.
 さて,来週月曜日の早朝,いよいよヨルダンを去ります.こちらにいるうちに,まとめの報告をお送りします.自分で2年間の活動を評価すると80〜90点というところでしょうか.十分に満足して日本へ帰ることができます.しかし,はじめから順調だったわけではありません.

◆ それは「ミスマッチ」から始まった
 私がシニアボランティアとしてヨルダンに来るまでの経緯はいささか複雑です.実はその1年前,2001年の春から2年間の予定でヨルダンに来るはずでし た.配属先はジョルダンニューズエイジェンシー(JNA),つまり1年後に始まる実際の派遣とまったく同じ案件によってです.私はこの派遣にかなり期待し ていました.なぜなら,Java,C++,グラフィックス,インターネットウェブなど,要請されている内容はどれも私が得意とする分野だったからです.
 しかし,2次試験まで合格したにもかかわらず,このときは派遣を断念せざるを得ませんでした.事前に受験の許可を得るという手続きを忘れていたために, 都教委から現職派遣の許可が下りなかったからです.私としては今の仕事を辞めてまで行く決心はつかなかったので,1年間,有資格者登録という形で待つこと にしました.
 そして,半年後の2001年秋,今度は都教委の許可を得た上で,再び受験ということになりました.私は前回と同じ案件があることを祈りつつ,募集要項を 開いてみました.しかし,誰か他の人に決まってしまったのか,それとも要請自体が消滅してしまったのか,もはや,その案件は存在しませんでした.正直なと ころ,私はかなり落胆しました.しかし,シニアボランティアとして海外に出たいという希望は強かったので,代わりに他の案件を探すことにしました.その結 果,自分の専門とはあまり合致していないことを承知の上でチュニジアとタイの案件を選び,それらに応募しました.
 その後,1次試験に合格し,2次の語学試験と続きますが,2次試験の受験後すぐ,合格発表の前にもかかわらず,JICAから突然の電話を受けました.ヨ ルダンへ行かないかという誘いでした.送られてきたS1フォーム(案件の内容が記された文書)は前年のものとまったく同じ.本当に大丈夫なのか.一抹の不 安が頭を過ぎりましたが,ここでOKと言えばそれで決まりということだし,そもそも自分が希望していた案件だったので,私は承諾することにしました.こう して2002年の4月,私はヨルダンに赴任することになったわけです.
 ヨルダンに赴任後,私の不安は現実のものになりました.S1フォームによれば,私の配属先はJNAですが,要請の背景として次のように記されています.
……….最近のめざましい通信技術の進歩に対応するため,横断的にコンピュータ・通信技術ラボを設立し,コンピュータソフトウェア(JAVA,C++,グ ラフィック,インターネットウェブなど)を活用して組織の強化を図ることになり,経験豊かなシニアボランティアの派遣を要請してきた.なお,このラボは UNESCOの機材を活用して運営されるため,UNESCOとの共同プロジェクトになる.
この文面から判断し,私はUNESCOで仕事ができると期待していました.実際,この案件はUNESCOのほうが主導権を握って計画を立て,JICAに要請してきたという経緯があることを後から知りました.
 しかし,私の派遣の時点で,この計画は頓挫していました.つまり,私に送られてきたS1フォームはすでに過去のものだったのです.私がJNAに行って S1フォームを見せたときに,2人のカウンターパート(職場との橋渡し役になる現地人スタッフ,JICAの方針ではこの人たちに自分の技術を伝授すること になっている)はこういうものをはじめて見るという様子でした.そのうちの1人は私にはっきりと「UNESCOに行く必要はない」と告げました.後日,こ の案件の作成に携わったUNESCOの職員に会ってみると,彼はすでに上司との関係がうまくいっていないようでした.実際,彼はそれから2,3ヵ月後に UNESCOを去ります.なお,それから約1年後,上司が変わったのを契機に彼は再びUNESCOに復帰し,アフリカに渡ったそうです.

◆ JNAからアラブアカデミーへ
 そのような経緯があり,私はUNESCO行きをあきらめ,改めてJNAにおける計画を立て直さなければなりませんでした.しかし,あえてJNA内での Javaトレーニングを試みたものの,約2ヶ月で予定のコースは終了し,同一メンバーでの計画の続行は難しい状況に至りました.8月はじめのことです.し かし,JNAには他に受講するスタッフはいません.
 この時点で,すでに私はJNAで2年間働くのは無理だという判断に傾いていました.他に働き場所を見つけようという気になっていました.そんな折に運よ く同僚のシニアボランティアからアラブアカデミーでの仕事を紹介してもらうことができました.そして,最初の4週間の講義の後,9月にはJNAからアラブ アカデミーへの配属先変更も完了しました.JNAへの配慮から,これからも週に1回は旧職場に顔を出すという約束も付け加えられましたが,結局,この約束 を守ることはできませんでした.
 そのとき私の気持ちは固まっていました.残り1年半の任期をJICAの既定方針に縛られず,自分の考えに従って行動しようと決心しました.要請されれば どこにでも出かけ,可能なかぎり数多くの講義を行うつもりでした.それもカウンターパートを通してではなく,直接,学生相手に講義するつもりでした.
 念のために言いますと,このミスマッチについて,私は少しもJICAを恨んでいません.いろいろな大学で多くの若い熱心な学生と出会うことができたのは ミスマッチのおかげです.それに多少のミスマッチはシニアボランティアが当然のこととして覚悟しておかなければならないリスクだと思います.

◆ ボランティアに徹する
 その後の経緯についてはこれまでの報告の中で詳しく述べているので省略します.私としては「ボランティアに徹する」ということをつねに心がけてきたつも りです.大学での講義にしても,「してやる」ではなく,「させてもらう」という気持ちを忘れないようにしました.待っているのではなく,仕事を求めて自分 から積極的に動きました.これが実り多いシニアボランティア生活をもたらした最大の要因だったと思います.ヨルダンにおける私の具体的な実績は次の通りで す.
トレーニング「Basic Graphics in Java」
講義「Basic Graphics in Java」
個人指導「Basic Java」
講義「Basic Graphics in Java」
講義「Basic Graphics in Java」
講義「Basic Graphics in Java」
個人指導「Basic Graphics in Java」
講義「Basic Java」
個人指導「Basic Graphics in Java」
講義「Basic Java」
卒業Project指導
日本音楽の紹介,合唱指導補助
講義「Basic Java」
講義「Java Windows Programming」
Jordan News Agency
Arab Academy
UNESCO(ろう者)
Jordan University
Arab Academy
Mutah University
Arab Academy
Mutah University
Arab Academy
Mutah University
Mutah University
Yarmouk University
Mutah University
Mutah University
2002/5〜8
2002/8〜9
2002/9
2002/9〜10
2002/10〜2003/1
2002/11〜12
2003/5〜8
2003/6
2003/7〜8
2003/10〜12
2003/11〜12
2003/12
2004/2〜3
2004/2〜3
 こうして2年間を振り返ってみると,いろいろな場面が懐かしく蘇ってきます.講義する相手が見つからず,暇を持て余してしまう時期もありまし た.Javaの講義はすべてBasicレベルで,Advancedレベルの講義は一度もできませんでした.まだまだ余力はあったし,コンピュータを離れて 純粋な数学や物理も教えたかったという気持ちもあります.しかし,全体を通して見るならば,自分でも十分に合格点を与えられると思っています.
 個々の場面では心残りに思うこともあります.たとえば,ジョルダン大学での講義が中途半端なままで終わってしまったことです.ジョルダン大学では 2002年の9,10月に合計15回の講義を行いました.聴講にきた女子学生たちはみな優秀で,私の言うことをたちどころに理解するばかりでなく,思いも よらない方法で問題を解いたりして,私をびっくりさせることもありました.自分でオリジナルなプログラムを作って見せてくれることもありました.このまま 継続すればかなり高度な内容にまで踏み込めると期待していました.しかし,大学側の協力を得ることができず,それだけでたち切れになってしまいました.
 今年1月の報告で書いたヤルムーク大学でのフルートの件も心残りです.もっと早く始めなかったことを悔やんでいます.
 ところで,この国に来る前に一番不安だったことは何でしょうか.私にとって海外での長期滞在ははじめてでした.そもそも私は海外旅行の経験もそれほど豊 富だったわけではなく,ひとりでふらっと外国へ行ける人がうらやましいと思っていたくらいでした.気候も習慣も違う異国での生活に耐えられるかどうか,も ちろん心配でした.しかし,それはどうにかなると思っていました.私が一番心配だったのは自分の専門に関することでした.はたして自分の専門性が通用する のか.それが杞憂だったこと,これが2年間の最大の収穫です.

◆ 宗教に関する考察
 宗教はこの地域の生活や政治に深く関わっています.宗教を抜きにして中東を語ることはできません.この地域の人々はとりわけ強い宗教心を持っています. もちろん,モスクへお祈りにも行かず,ビールを飲んだりしているムスリムがいることは知っています.しかし,総体としてみれば,この地域の人々は日本人と は比べものにならないほど宗教的です.普段は偉そうにしている大学の先生が跪いて祈っている姿を,思いもよらずドアの隙間から見てしまったこともありま す.そんなときは「見てはいけないものを見てしまった」というような罪悪感にさえ囚われました.
 世界中どこでも人間は宗教的だと思っているのか,彼らはよく「あなたの宗教は何か」と聞いてきます.はじめ,私は自己欺瞞だと知りつつ「仏教徒だ」など と答え,あとで自己嫌悪に陥っていました.しかし,途中からはっきりと英語でatheist,つまり無神論者だと正直に答えるようにしました.そうした ら,後味の悪い思いをしなくてすむようになりました.もちろん中には怪訝な顔をする人もいましたが,それが原因で人間関係が気まずくなるようなことはあり ませんでした.
 宗教の意味とは何なのでしょうか.この問題については宗教的でない人間のほうが冷静に考察することができます.昔,ロシアの革命家が言いました.「宗教 はアヘンである」と.この指摘は真実の一面をついています.宗教には現実の経済的,物質的な痛みを超越し,そこから目を逸らす効果があります.宗教を信じ る人間にとって,神は絶対的な存在です.唯一の究極目標であり,人生はそれに近付くための永遠に続く過程です.目標がゆらいだり,それを見失ったりするこ とはありません.そして,このことが日常生活における心の平穏をもたらします.
 その対極に位置するのが我々日本人のような神を失った人たちです.絶対的な基準はなく,人々は他人と見比べることによって自分を確かめようとします.そ の他人も自分を他人と見比べる不確かな存在であり,基準は移ろいやすく相対的です.「他人と比較して優れているか」,「他人からどう見られているか」,い つもそのようなことが自己を支える判断基準になります.したがって,精神状態はいつも不安定でイライラしています.このような不安定さはあくせく働き,前 進し続けることによってしか解決しません.おそらく,20世紀後半の日本の「発展」はそのような不安定さがもたらしたのでしょう.こちらで生活して比較し てみると,いかに日本人の労働時間が長く,精神状態が不安定であるか,よく分かります.一時帰国した折に電車で向かい側の座席に座っている人を観察してい ると,思わず吹き出してしまいます.みんな腕組みをして,眉間にしわを寄せ,アトラスのように世の中の苦悩を一身に背負っているという表情です.
 中東の伝統的なアラブ社会は現世の物質的な発展を放棄する代わりに精神の安定を得た社会です.各個人は直接的に神と対峙しています.日本と比較して物質 的には貧しく,いろいろな面で自由が制限されているにもかかわらず,人々は底抜けに明るく開放的です.少しも屈託がありません.イラクのように外部からの 勢力によって崩壊してしまった国を除けば,一般に中東のイスラム国家は日本人が考えているよりはるかに安全です.「暴走族」やチンピラ,押し売りの類は皆 無です.世俗的な日本社会と宗教的な中東社会を比較して,好きか嫌いかを言うことができても,どちらが優れているかは簡単には判断できない問題です.
 ただ,歴史的に見て,この地域において宗教が停滞を生んだということは事実だと思われます.数学の歴史の中でインドとアラビアが最も先進的な役割を果た した時代があります.西暦500年から1000年くらいまで,すなわちイスラムの勃興をはさむ前後500年くらいかと思います.インド人の輝かしい業績で ある「0の発見」はアラビアを経由してヨーロッパに伝えられました.現在でも使われている数学用語「Algebra(代数学)」や「Algorithm」 はアラビア語起源です.しかし,私は数学に対するイスラムの影響はむしろマイナスに作用したと考えています.「イスラムの影響が浸透するにつれて,この地 域の数学は衰退した」と見るのが妥当なのではないでしょうか.近代科学の発展には神をも含めてすべてを疑うという懐疑主義,その結果,「我思うゆえ我あ り」に到達したデカルト的な徹底した批判精神が必要です.イスラム教において,神まで疑うことは決して許されない行為です.
 一度,ムタ大学の学生に数学におけるアラビアの「過去の栄光」について聞いてみたことがあります.そうしたら,さすがにみなさん,よく知っていました. アル=フワリズミ(当時の有名な数学者)の名前も知っていました.それ以上,突っ込みませんでしたが,おそらく小中高の暗記教育の中で無批判に覚えさせら れたのではないかと疑っています.
 余談ですが,先日,非常に珍しいものに出会いました.現地人の酔っ払いです.もちろんヨルダンに来てはじめてです.ムタ大学からの帰り,バスターミナル からセルビス(乗り合いタクシー)に乗って家に帰るとき,3人がけの後部座席の反対側に座っていました.ぐてんぐてんというほどではありませんでしたが, アルコールの臭いを発散させながら,アラビア語で真ん中のヨルダン人青年にからんでいました.私は反対側を向いてくすくす笑い,そのうちに運転手から降ろ されましたが,非常に懐かしく,ホッとした気分になりました.

◆ さらばヨルダン
 異国での2年間,時間は十分にありました.たとえ忙しいと言っても,日本での忙しさとは比べものになりません.私は余暇を利用してヨルダン国内を隈なく旅行し,数々の国外旅行も試みました.2年間に残した足跡は次の国や地域に及んでいます.
シリア
トルコとギリシア
ドバイ(帰国途中)
スコットランド
ローマ(帰国途中)
シナイ半島
ギリシア
カイロ
2002/9/13〜19
2003/1/20〜26
2003/2/23〜24
2003/7/2〜8
2003/8/29〜31
2003/11/25〜28
2003/12/11〜17
2004/1/20〜24
 私は文章を書くことが好きなので,暇さえあれば何か書いていました.国際研のホームページに載せる『ヨルダン報告』の作成にも時間を費やしましたし,本 も書きました.こちらでの講義内容をまとめた『すぐできるJavaグラフィックス』が講談社から出版される予定です.この新作以外に,すでに出版済みの3 冊について,頼まれてもいない改訂版を完成させました.ただし,こちらのほうはまだ出版の目途は立っていません.
 その他,植木いじり,毎朝のストレッチと筋力トレーニングなどもやりました.あまり上達しなかったけれど,いろいろな料理にも挑戦しました.それでも時 間は余ったときはBBCニュースを聞いたり,BBCのWebページを読んだりしていました.おかげで,英語力も少しは上達したと思います.
 2年間の活動を終えて,今は日本に帰ろうという気になっています.次にJICAの活動に参加するとしたら,アラブ以外の別な地域に行きたいと思っていま す.しかし,将来,この地域に再び戻ってくる可能性を否定しません.少なくとも,ここに来ればやることは十分にあるので.

                    (完)


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