JICAシニア海外ボランティア 庄司養昌(都立足立高校)
【自然と生活】
任地アントファガスタは砂漠の地で、11月15日着任(首都サンティアゴには1週間もいない。)以来未だ雨に会わない。砂塵や排気ガスは舞っているが、
埃は重い。海岸地帯ゆえに湿気があり、盆地の首都と異なり、室内では洗濯物の乾きが悪い。この地に川はない。水はどこかから運んでくる。ボリビアから水を
買う等との話も聞く。砂漠で水がないのに、なぜ都市として存しているのかは、歴史的に鉱山関係の要所であることに一因していよう。水道代は首都の倍(この
国は全物資が首都に一度集積し、後に地方に分配されるようである。)、必然、物価は高く、卵やノート等々、日本と値段が同じものが少なくない。米は細長い
ものばかりであるが、多くのスーパーには日本の醤油(ハンガリー隊員時には特別な店にしかなかったが)があり、総合病院等々もある。高級住宅地と称される
地域(未だ行ったことはない。)が、この都市南部には広がっている。
ところで、この砂漠の町にも、従来からのメルカド(市場)はある。時代の流れに陰りを見せ、危険地域の名が鳴り響きはじめている。また、小生のアパート
前に鉄道がある。日に何回か銅板が十数台の車両に平積みされて運ばれていく。数時間後に、カラの貨車が逆方向に帰っていく。その単線をガードする杭や柵な
どはない。鉄道輸送の基本、つまり輸送という面が、素朴に浮き出されている。援助とはかけ離れた感が醸し出されている面もあるが、新旧の時代が混ざり合
い、どこか懐かしさもある。
【この地でのボランティアから】
今回の派遣は、勤務当大学で「日本語教育でのボランティア」との活動(このところは教材づくりで、クリスマスも正月もない。)といわれている。日本で直
接する日本語教育とは異なった実際活動が要求されることになろうが、一般的にどんな活動や日本語教育が想像できるかを考えてみたい。
日本語教師が世界的に少ない。その希少性ゆえに、ボランティア教師が教室活動を日本語教育の日本的方法(通常の学校教育の外国語教育とは一見異なるの
は、学校教育の外国語教育とは環境が異なる場合が多いのが、大きな一因の一つ。)で率先して行なう。という実践が考えられる。日本の大学教育の第三外国語
等から敷衍すれば、この想像は道理かもしれない。ところが現地の日本語教師(日本人と同じ言語能力を現地人日本語教師に求めたり、日本人が日本語教師であ
るべき等々)が育たなければ、半永久的に、日本人ネイティヴが日本語教師を続ける可能性がでてくる。日本の学校教育の外国語教育を顧りみて、常に外国人が
教え続ける外国語教育は、一般に想像しにくいが、ありえないことでもない(例えば、学校教育等に日本語教師が職として確立されないとか、語学学校等でのネ
イティヴ教師の商業的強調等々。)。事実、この国の首都サンティアゴには日本語の語学コースが語学学校的に存続している(この種の事柄は一般の授業枠で外
国人教授が教授活動しているものとは異なり、外国語授業についての話であって、例えば大学の専門教育課程には、外国人教師の存在は少ないことは御案内の通
りである。)。
また、日本の語学学校等を念頭に、教育内容的自由さ、または逆に留学・検定試験等の目的的凝集性を想像していくことも可能であろう。特に日本の日本語教
育において、学習・教育内容基準の中に、何時間・何語学習したか等々で、初・中・上級等々の段階を設けている点を御案内の方々にとっては、大学教育の第三
外国語等の内容的自由さの予想よりは、教育・学習目的性の高い、プログラム学習的要素を日本語教育には想像されるかもしれない。その種の教育目的性のため
に活動するというのは、語学学校の経営進展にはよいであろうが、今ひとつ、一考が必要かもしれない。
次に、日本の学校教育の中のALT的存在として、日本語教育活動を理解することは、学校教育という状況からも、ある意味で順当な想像的理解かもしれな
い。しかし、当国も国際化(南米のリーダー国としてか、世界基準を意識してか)の流れの中か、一般に教員の資格が厳しくなってきて(教育学が重視されてい
るようであるが、首都からバスで約20時間の地では、動向把握は難し過ぎる。)おり、教員の修士取得活動を耳にする(日本語ついていえば、サンチャゴ大の
日本語翻訳科があるが、その内容を、日本の翻訳文化の華々しさから連想してしまう小生などでは、齟齬を未だに埋められていない。安易に統計で教育等を比
較・理解することの困難さをも実感している。そんな中、首都の国立図書館の参考図書室で見た『研究社和英大辞典』の使い古された表紙が、なぜか頼もしかっ
た。)。また、ALTの資格等に関しては、その活動や目的等々の考慮事項が多いのは御案内の通りである。日本のALT教育活動には、日本人英語教師の教師
教育も眼目にあるかもしれないので、この点を敷衍して、現地人の日本語教師の進展に寄与するボランティア活動(現地には言語素材等が、ある程度存すると考
えるのが一般的であるが。)という想像は可能であろう。しかし以下に記述するように、英語すら文献等が少ない中で、日本語素材等々の環境を勘案すると、展
開の難しさを否定できないでいる。そんな現状の中、日本のALTとは異なり、交換留学生(米国等から中等教育へ留学を支援する等)を英語授業に活用させる
案が、巷では語られることが多々ある。当国の若者の様子から、活力ある若者的展開が学習に有効に働き、学習者間の学習有用性が効果的に進展するかもしれな
い。
この他、各種の予想が日本の教育という言葉から可能であろうが、「教育」というものが、社会的・環境的要因に影響を受けやすい性質(日本における総合的
学習やゆとりの位置付け等々)もあり、注目・関心点を、チリの教育動向として、日本的視座の日本語教育の検討はこの辺とする。
【外国語教育の理解】
当地アントファガスタでは数十年(これは首都に先立ち行われた。)続いて、移民たちの祭りがある。歌や踊りの披露等々が、何日間か海岸の舞台で行なわれ
るのである。クロアチアをはじめ、アラブ、中国等々と参加民族は多様で、この地に国際観や異文化寛容性がいきわたっていることがうかがえる。また、銅をは
じめ、貿易の都市でもある。
しかし英語はまず通じない(この現象は首都でも同様)。国際的な懐の深さや興味・関心等を随所に感じさせる割に、当国の英語教育の流れは、緩やかと思わ
れる。活躍しているのは、聞き取りの難しいスペイン語である(ケ・タ・ビ・タ・エゴなどと店の帰り際にいわれ、ギョッとしたりした。Que este
bien hasta
luegoらしい。丁寧な表現にはいるらしいが、礼を尽くされても分からない学習不足や学習方法に、少しかなしさを覚えることがある。Que等は日常会話
に頻繁に接する。日本の語学教育の特徴からか、ゆっくり学ぶ接続法が飛び交うのが現実生活で、言葉における礼は大切であるが、わからない現地語が一層複雑
になっていく。)。ホテルでも外国語の新聞はまずない。物価が首都に比べ高い中で、舶来高級品はもっと高いが、スーパーでも陳列されている(ということは
買う方々が存在していることを物語っている。)。また、ケーブル・テレビの外国語番組等々も容易で、身近な中で外国に接してた生活がなされている。他の物
価から比較すれと、書籍類は非常に高価である。ゆえに車道での新聞売りが生活の糧になり、各種雑誌を売るキオスクも町の随所に見かけるのかもしれない。マ
クドナルドで英語母語話者が苦労しているのを散見するに、自身の姿を見る思いがある。つまり、英語はあまり通じないが、英語話者の外国人は身近に存在して
いる。日本の状況と似ているともいえる。
身近な国際性の存在と英語教育の展開には、奇妙な不具合も感じる。しかし、外国語学習展開には鋭さを感じることも少なくない。先ずインターナショナル・
スクールやブリティシュ学校などが、このアントファガスタでも目につき、英語の語学学校も少なくない。ラルースの学習用の西英・英西辞書などは町で容易に
見かけられる。ところが、英語の本となると、そうは見あたらない(首都でも英語の本を見つけるのは容易ではない。)。英語学習は私的有用さ等々に、展開・
拡大しているようである。
語学がある種の個人的獲得技能であると考えれば、外国語学習は私的な教育要素を多く含んでいるともいえるかもしれない。ちなみに当国では、大学入試に外
国語の力は必要とされていない(大学の英語の授業では生徒の学力混成状態等を聞くこともあるが、水泳ができようができまいが、体育の授業にあれば、取り組
むことを考えれば、そう不思議でもなかろうし、日本の状況に似ているともいえよう。)。
一方、デルタ・プログラムと称し、全国的に展開されている専門教育の学校教育への流れがある。ここアントファガスタでも、大学や市等と共同で、小学生
(小学校といわれる期間が当国は、日本に比べ長い。)を集めて、授業等を行っている。この種のアカデミックな学校教育的展開は全国的になされている模様で
ある(博士課程が許可されている大学をみれば、首都集中は先に述べた物資だけでなく、施策等々同様であろう。)。その中にはネイティヴの大学教師による英
語の授業もあるらしい。日本的教育の平等観等とは異なったものもあろうが、教育にはどこか活き活きとした躍動感が感じられる。今一月末は夏休みである。新
学期へ向けた教材が販売され、売れている。教育熱心さも各所に感じられる。当地の人口は二十数万で、このようにどことなく、日本を髣髴させる面もある。
一般に、教育を比較する時に、似た教育制度の国等々の比較が有用なのは御案内ところである。比較による理解の効果は、似ているところを確実に把握し(組
織や社会的進展等も含まれよう)、各種教育活動等を理解・評価することによるともいえよう。只今教材づくりの中、様々な考慮が要求され、外国語教育の理解
はそのなかでも重要事項だが、現状は上記の通りで、勉強の必要性を痛感させられているところである。

これが小生の住居から見た、アントファガスタのセントル(中心)です。手前中央は病院、手前左は駐車場(町のそこここにある。1時間百円以上。)。病院
の後ろに角に塔がある建物が市の中央郵便局。真ん中の白い尖塔の建物が教会で、郵便局と教会の間にプラサ・コロンという広場があり、かつて英領と記された
碑もある。数知れない小さな家々はこの写真では山に向かっているが、主に向かって左(北)に大きく広がる。